ノルマン説
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/22 06:38 UTC 版)
ノルマン説を論じる者は北欧や西欧の歴史家に多く、近現代においてはロシアを除いて東欧諸国の政治力は非常に弱かったため、現在でも世界の歴史家(注意:歴史家は歴史学者ではない)はこの支持者が多い。 そのような過去の時代においてノルマン説に立っていた歴史学者たちは、「原初年代記」に登場するリューリクを実在の人物とし、ルーシもまた彼の率いたヴァリャーグの一団であると主張した。彼らの論拠は主に中世に書かれた文書記録にある。彼らはルーシ最初期の歴史書で作者不明(一説には年代記者ネストル)「原初年代記」の信憑性は高いものであると主張、同書に東スラヴ人に関する記述が少なく逆にノルマン人に関する記述が多いことから、ルーシが古ノルド語に由来する言葉であると考えている。彼らはまた、東ローマ帝国やイスラム、フランク王国などの海外文献においては「ルーシ」と「スラヴ」がはっきりと使い分けられていることを指摘している。特にフランクの文献である「サンベルタン年代記」には「スウェーデン人=ルーシ人」という記述が記されている。さらにスウェーデン側にある唯一の記録は、ルーン石碑に刻銘されたものである。この石碑のおよそ10パーセントは海外へ行って死んだ人物を知らせるもので、「サンベルタン年代記」や「クレモナのリウトプラント(英語版)」と同時代のものであり、その中にはビザンティウムを訪問したルーシ族がスカンディナヴィアの住民であると銘文されている石碑もある。 以上のことから、ノルマン説の学者らは「ノルマン人の一派としてのルーシ族」として推測し、ラドガなどバルト海沿岸に植民し、さらに川伝いにロシア平原へと拡張して行ったとされ(年輪年代学による発掘品の調査などから史実と考えられている)、東スラヴ人の地に溶け込み定住し、多数を占める東スラヴ人に同化されていったと考えている。早くも10世紀には、彼らの使用していた古ノルド語ではなく、スラヴ語圏のルーシ語に取って代わられたとし、そして近世まで使用されたスラヴ人としての“ルーシ人”が形成されたとしている。 ただし、ノルマン説の論者たちも、ルーシ族が北ゲルマン語群である古ノルド語を使用していたかについては断言出来ないとしている。たとえ使用していたとしても、次第に現地の言語に取り込まれて行ったと考えられている。彼らが初期にどの言語に属していたかははっきりしていなくとも、彼らが武装船団を率いていたことは、同時代のヴァイキングと同じであり、しかもノルマン人がラドガ湖まで進出、移住していたことが、発掘などにより明らかになっており、ルーシと呼ばれる人々もその影響下でルーシ・カガンの国家群を形成したとフランク、東ローマ、イスラームなど中世諸国の文献が伝えていることからノルマン説は、後述の反ノルマン説よりも情報源としては進んでいると言える。
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