ノルマン建築と中世建築の進化
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/30 22:48 UTC 版)
「ピーターバラ大聖堂」の記事における「ノルマン建築と中世建築の進化」の解説
ノルマン人侵攻の際、地元の英雄ヘアウォード・ザ・ウェイクが彼らと争う間に聖堂が損傷したことから、修繕され、1116年の失火で破壊されるまで繁栄が続いた。 ノルマン建築での新聖堂建設は、1118年に聖職者ジョン・ド・サイスにより始められた。 1193年より建物は、中央の塔と本堂の装飾された木製天井を含む、本堂西部が完成した。天井は1230年から1250年までの間に完成し、今も現存する。ブリテン諸島では珍しいもので、ヨーロッパ全体でもそのような装飾天井は他三カ所しかない。 天井は1745年と1834年の二度にわたって彩色されたが、未だ原型の様式と特徴が保存されている。(対照的にイーリー大聖堂の本堂天井は完全にヴィクトリア朝期の創作である)。 聖堂は大部分が地元の採掘場でとれるバーナックの石灰岩で建てられている。 西交差廊が完成し西側正面のポルチコが付け足されたのは1237年である。中世の石工は新たなゴシック様式に転じていた。窓への変化から離れ、ポーチの差し込みを支えるポルチコの柱群と、新しい建物を東側に付け足した工事は16世紀初め頃に始まり、その建物の構造はほぼ800年後も本質的に完成したときのままである。完成した建物は1238年にリンカン司教ロバート・グロッステストにより献堂された。 『グレート・ウエスト・フロント』はピーターバラ大聖堂をはっきりとイメージさせるものである。それは三つ揃いのアーチを見せるために、中世建築で右に出るものはない。隠れた尖塔の束は、より実用的な理由から、前例のない4本の塔群を発展させた。今はすたれたゴシック様式の正面部分が付け足されたときに、初期ノルマン様式の正面塔群をとどめていることにより効果が増した。 ノルマン建築の塔は1350年から1380年頃に装飾ゴシック様式で再建された(主な梁と屋根の浮きあげ彫りが現存する)。ロマネスク様式の窓の2つの段はゴシック様式窓の一対の組み合わせとなっており、銃眼付き胸壁によって取って代わられ小塔のある柱頭と小尖塔が取り除かれた。1496年から1508年の間、内陣の屋根が取って代わられ、長方形の建物がノルマン建築の東部アプス周囲に建てられた。そこにはイングランド・ゴシック期の扇状ヴォールトが付け加えられた(ケンブリッジ大学キングズ・カレッジ内礼拝堂の建築家、ジョン・ウェイステルの設計といわれている)。
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