ノルマン人支配下のシチリア島
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/13 00:50 UTC 版)
「イタリアのイスラム教」の記事における「ノルマン人支配下のシチリア島」の解説
カルブ朝政権下で始まったシチリア島の文化的、経済的繁栄は、チュニジアのズィール朝(1027年)、ピサ(1030~1035年)、ローマ(1027年以降)による多数の死傷者を出した戦いとそれに続く侵攻により中断された。東シチリア(メッシーナ、シラクサ、タオルミーナ)は1038年から1042年までビザンティン帝国の支配を受けた。1059年、イタリア南部からルッジェーロ1世に率いられたノルマン人が来襲、島を征服した。ノルマン人はレッジョ・カラブリアを1060年に征服した(ローマにより1027年に征服されていた)。メッシーナは1061年にノルマン人の手に落ちた。イスラム教国家による支配を守るためのアルジェリアのハンマード朝による侵攻は1063年、ジェノア・ピサ連合軍の迎撃により失敗に終わった。1072年のパレルモ、そして1088年のシラクサの失地も防げなかった。ノートとシチリア島の最後のムスリムの拠点は1091年に陥落した。1090~1091年、ノルマン人は再度マルタを征服、パンテッレリーアは1123年に陥落した。 ノルマン人による支配下においても、少数ながらムスリムはシチリア島に残っていた。ルッジェーロ2世は、歴史上初めて正確な世界地図を作成した高名な地理学者ムハンマド・アル=イドリースィーや詩人のイブン・ザファル(ドイツ語版)らを宮廷へと招いている。最初、ムスリムたちはノルマン人によって寛大な処置を受けていたが、すぐに教皇からの圧力により差別が強まることになった。モスクの大部分は破壊もしくは教会へと作り替えられた。初期のシチリア島のノルマン人は十字軍に参加しなかったが、1157年以降にムワッヒド朝に敗れるまで何度かイフリーキヤへの侵攻や襲撃を行った。 シチリア島における平和的な共存関係は1189年のグリエルモ2世の死とともに終焉を迎えた。上層階級のムスリムたちはこの時に脱出した。彼らムスリムの医学的知識はスコラ・メディカ・サレルニターナ(英語版)に保存されている。アラブ・ローマ・ノルマン人の芸術面や建築面における融合はシチリア・ロマネスクとして現代まで残存している。島に残ったムスリムたちはシチリア島のカルタジローネなどへと逃亡したり、山岳部に身を隠し、1194年よりシチリア島を支配したホーエンシュタウフェン朝に対し抵抗を続けたりした。島の中心部において、ムスリムたちはイブン・アッバードがシチリア島の最後のアミールであると宣言した。 この大変動期を収束させるため、自らも十字軍騎士であった皇帝フリードリヒ2世は残存する少数のムスリムをシチリア島から排除する政策を実行した。この民族排除は、ごく一部には教皇支配の強化の意味もあったものの、主な目的は非キリスト教徒の潜伏者に影響されることのない忠誠心の強い軍隊を作ることにあった。1224年から1239年にかけて、フリードリヒ2世は、シチリアから、プッリャのルチェーラにある自治植民地へとムスリムを追放した。この植民地は、ムスリムが非ムスリム居住地へ浸透することができないようにするため、厳しい軍事管理下に置かれていた。しかし、ムスリムたちはフリードリヒ2世により軍に採用され、ムスリムたちはフリードリヒ2世の政敵と何のつながりもなかったために忠実な近衛兵団となった。1249年、フリードリヒ2世は同様にしてマルタからムスリムを排除した。教皇の命により、ルチェーラは1300年にカルロ2世の手でキリスト教徒の下へと戻ってきた。ムスリムたちは強制的に改宗されるか、殺害もしくはヨーロッパから追放された。しかし、プッリャにムスリムのコミュニティがあったことは1336年の記録にも残っている。2009年には、現代のルチェーラ地方付近に住む住民には北西アフリカと同様の遺伝子が少数ながら見られるという遺伝学的研究成果が発表された。
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