ノルマン人の南イタリア到来、999年–1017年
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「ノルマン人による南イタリア征服」の記事における「ノルマン人の南イタリア到来、999年–1017年」の解説
ノルマン人が南イタリアを訪れるようになった年代は明らかでないが、10世紀末よりヨーロッパでは聖地巡礼が盛んになり、ノルマン人の間でもエルサレムやイタリアのモンテ・ガルガーノ(イタリア語版)に詣でる者がいたと想定される。南イタリアでのノルマン人の働きに関して後の年代記に記録された最も古い事例は、1010年代までに起こったであろう二つの出来事である(後述のサレルノ伝承とガルガーノ伝承)。それらのエピソードから窺知されるのは、地中海地方で傭兵の募集があるという話が巡礼者を通じて広まり、これがノルマン人戦士を南イタリアに向かわせるきっかけの一つとなったということである。 いくつかの史料によれば、999年頃、聖地エルサレムからプッリャ経由で帰還の途次にあったノルマン人巡礼者の一団がサレルノに立ち寄り、サレルノ公(侯)グアイマーリオ3世(イタリア語版)の許に逗留したという。折しもサレルノの町とその周辺地域は、遅延している年一回の貢納の支払いを要求するサラセン人の攻撃を受けていた。グアイマーリオ3世は貢納金を集めようと仕掛けたが、その間にノルマン人たちは公とそのランゴバルド人臣民たちの弱腰を難じ、直ちに包囲するサラセン軍を襲撃した。これによりサラセン人は敗走し、多くの戦利品が得られた。これに感謝したグアイマーリオなる者、宴を開いてノルマン人たちを歓待し、かれらにこの地に残って働いてくれるよう懇願する。ノルマン人はこれを断ったものの、グアイマーリオ3世からの豪華な贈り物をノルマンディーにいる同胞に送り、サレルノで兵として働けば褒賞を得られるかもしれないという話を同胞に広めることを請け合った。いくつかの史料では、それだけでなく、グアイマーリオ3世は戦士を獲得するためにノルマンディーに使者を派遣したとまで伝える。ノルマン人の到来に関するこの話は「サレルノ伝承」と呼ばれることがある。 この「サレルノ伝承」が初めて記録されたのは、1071年から1086年までの間にモンテカッシーノのアマート(イタリア語版)によって執筆された『ノルマン人の歴史』 である。12世紀初頭にレオーネ・オスティエンセ(イタリア語版)によって執筆された『モンテ・カッシーノ年代記』の、助祭ピエール(フランス語版)の手による続編では、「サレルノ伝承」に関する情報のほとんどがアマートの著作から借用されている。17世紀のカエサル・バロニウスの著作である教会年代記(英語版)を発端として、サレルノ伝承は歴史として認められるようになった。サレルノ伝承が正確に事実を伝えているか否かという問題は、その後の何世紀にも亘って時折呈されてきた疑問であったが、以降のほとんどの学者は、この伝承に何らかの修正を加えた形で史実として承認するようになっている。 イタリアでの最初のノルマン人到来に関するもう一つの歴史上の記録も、それまでのノルマン人の存在には一切ふれることなく主要な年代記の中に記されている。この話は「ガルガーノ伝承」と呼ばれている。モンテ・ガルガーノ(モンテ・サンタンジェロのサン・ミケーレの聖域(イタリア語版))に向かうノルマン人巡礼者一行は、そこでランゴバルド貴族であるバーリのメロ(イタリア語版)と出会い、アプーリアのビザンツ総督攻撃に加わるよう説得されている。これは1016年のことである。 「サレルノ伝承」と同様、ガルガーノ物語についても2つの一次史料がある。一つは1088年から1110年にかけてプッリャのグリエルモ(イタリア語版)によって記された『ロベルト・ヴィスカルディ武勲詩』であり、もう一つはこれより一世紀後にアレッサンドロという名の修道士がグリエルモの著作を基に執筆した『聖バルトロマイ・デ・カルピネート修道院年代記』である。サレルノとガルガーノ物語とを結びつけて考える学者もおり、ジョン・ジュリアス・ノーウィッチ(英語版)はバーリのメロとノルマン人との邂逅の話はそれ以前にグアイマーリオによってお膳立てされたものだったのではないかとさえ仮定している。バーリのメロは、東ローマ帝国領から追放されてからモンテ・ガルガーノを訪れるまでの間に、サレルノに滞在していたことがあったとされているのである。 それ以外には、自ら進んで亡命してきたドレンゴト家(イタリア語版)出身の兄弟からなるグループの話が含まれる。その兄弟の一人であるオスモンド(フランス語版)(オーデリック・ヴァイタリスによる)ないしジルベール(アマートと助祭ピエールによる)が、ノルマンディー公ロベール1世の統治時代にギョーム・レポステルなる人物を殺害した。伝えられるところでは、レポステルはジルベールの娘を辱めたことを吹聴したことにより殺害されたという。レポステル殺害によって安全が脅かされることとなったドレンゴト兄弟は、一族を引き連れて祖国を脱出してローマに逃れているが、兄弟の一人はバーリのメロと合流する前にローマ教皇に謁見している。アマートは一連の物語を1027年以降のこととしているが、教皇に謁見したことに関する記述はない。アマートによるとジルベールの兄弟にはオスモンド、ライヌルフ(イタリア語版)、アスクレティン(フランス語版)およびルドルフ(英語版)(ピエールによればLudolfusではなくRudolfus)がいた。 レポステルの殺害に関しては、ロベール1世の統治下すなわち1027年以降のこととされている点ですべての年代記は一致しているものの、ロベールという記述は間違いであり、本来はリシャール、すなわち1017年に公であったリシャール2世のことではないかと信じる者もいる。第一次のノルマン人移住がドレンゴト家とレポステルの殺害に何らかの関係があると仮定するならば、その年代はもっと古いものに書き換えねばならない。ラウル・グラベール(フランス語版)による『歴史』は、「ルドルフス」なる人物がリシャール伯(すなわちリシャール2世)の不興を買った末にノルマンディーを去ったとする。兄弟の中で指導者として南イタリアに赴いた者の名は資料によって異なる。オーデリックおよびジュミエージュのギヨーム(英語版)の著作『ノルマンディー公武勲詩(英語版)』はオスモンドとし、グラベールはルドルフとする。レオーネ、アマートおよびシャバンヌのアデマール(フランス語版)はジルベールとする。南イタリアの資料の大半は、1018年のカンネーの戦い(イタリア語版)でノルマン軍団を指揮したのはジルベールであったとする。 仮にこのルドルフがアマートの歴史に出てくるドレンゴト家のルドルフと同一人物であったとするならば、ルドルフがカンネーの戦いの指揮官であったということになる。 ノルマン人のメッツォジョールノへの到来についてのもう一つの仮説 - 近代の仮説 - は、グラベール、アデマールおよびレオーネ(ピエールによる続編に非ず)の年代記に関するものである。この3つの年代記はすべて、リシャール2世の怒りから逃れたルドルフに率いられた40名もしくはそれより大幅に多い約250名のノルマン人がローマの教皇ベネディクトゥス8世のもとに赴いたと述べている。当時教皇は自らが宗主権を有するベネヴェントが東ローマの侵略を受けて憤激していたことから、東ローマに対抗する傭兵を募集しているサレルノないしカープアに彼らを向かわせた。同地にてノルマン人たちはベネヴェントの指導者であるベネヴェント公ランドルフォ5世(英語版)とカープア公ランドルフォ4世(イタリア語版)に会ったが、前述のサレルノ侯グアイマーリオ3世とバーリのメロと会った可能性もある。レオーネの年代記を基にするとルドルフは、トスニのラルフと同一人物であると推定される。 1017年5月での対東ローマ戦においてバーリのメロに雇われた傭兵たちを、南イタリアでノルマン人の軍事活動が初めて確認された事例に含めるとするならば、そのノルマン人たちは1月から4月の間にノルマンディーを発ったことになる。
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