ノルマン・東ローマ戦争、1059年–1085年とは? わかりやすく解説

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ノルマン・東ローマ戦争、1059年–1085年

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/12 23:35 UTC 版)

ノルマン人による南イタリア征服」の記事における「ノルマン・東ローマ戦争、1059年–1085年」の解説

ノルマン・東ローマ戦争」も参照 アプーリア大部分が遥か南方まで維持しバーリグリエルモ1世、ドロゴーネ兄弟やその他アルタヴィラ家の面々遠征中に服従する一方で、カランブリアの大部分はロベルト・グイスカルドが1057年継承した時点では東ローマ掌握したままであったカラブリア最初に撃破されたのは1040年代初頭グリエルモとガイマールによってであり、ドロゴーネは野心的なグイスカルドを同地1050年代初頭据えた。カランブリアにおけるロベルト最初実績はしかしながら封建勢力豪族略奪者との闘い費やされギリシャ系住民服従は何も体系化されなかった。 ロベルト自身伯爵領有権掲げて直にカランブリアへの遠征開始した1059年 8月23日メルフィ伯領に到達するまでに短期間妨害された、そこでロベルトは公として就任すると、後年にカランブリアへ帰還し同地ではその軍勢カリアーティ包囲した。 公が到着すると街は降伏し季節の終わり前にロッサーノジェラーチェ降伏したイタリア半島重要な都市ロベルトが冬にアプリア帰還した時点ではわずかにレッジョ東ローマの手にあったアプリアにてロベルト東ローマ守備兵一時的にはあるにせよターラントブリンディジから移動させた。1060年にカランブリアに帰還した際にはシチリア拡張大い開始された。レッジョ陥落長く骨の折れる包囲の末に獲得したものであったしかしながらロベルト兄弟ルッジェーロ1世当座しのぎ攻城兵器用意していた。 レッジョ陥落後に東ローマ守備兵同地の島の要塞であるシッラ逃れた早期敗れている。ルッジェーロ1世海峡越えた小規模な襲撃撃退され1060年後半東ローマ皇帝コンスタンティノス10世ドゥーカスによってアプリア派遣され同国大軍存在ロベルト呼び戻した。カタパノ(イタリア語版)のミリアクラ(英語版)のもと東ローマ軍ターラント、ブリンディジィ、オーリアオトラント奪回した1061年1月ノルマン人首都であるメルフィ包囲された。しかしながら5月までにロベルトルッジェーロ1世兄弟によって東ローマ軍駆逐されてアプーリアの平和は回復された。 トラニ伯ピエドロ1世息子であるゴフリード(イタリア語版)は1063年オトラント1064年ターラント征服して都市を自伯領の所有地とした。1066年には軍を編成して海を越えて東ローマバルカン半島攻撃したが、バーリ付近で、ミカエル・マウリカス(英語版率い最近新たに着任したヴァラング新衛兵によって阻止された。ミカエルはブリンディジィと短期間ではあるがターラント奪回し、かつてニケフォロス・カランテノス(英語版)のもとでブルガリア人との戦い経験した兵士達駐屯軍として置いたミカエルイタリアノルマン人対す一連の成功したものの、それは東ローマがこの地区与えた最後意義のある脅威であった。東ローマ・カタパノ領の首都であったバーリ1068年8月からノルマン人によって包囲された。1071年4月には、バーリ陥落イタリア語版)によって、東ローマ総督最後前哨兵は西欧から消失したランゴバルドイタリア語版)・テマ区だったアプーリアとカランブリアからの東ローマ駆逐後にロベルト・グイスカルドはバルカン東ローマ領やギリシャ本土攻撃狙い定めたビザンツにとって幸運だったのは廃嫡されたプッリャ伯ウンフレートの息子ロベルトの甥であるアベラルドイタリア語版)とエルマーノ(イタリア語版)の兄弟味方になったことである。兄弟ロベルト対す反乱は、同じく彼に対抗する形で自領(英語版)を東ローマ宗主下に認めていたモンテ・サンタンジェロエンリーコ英語版)を支援した1081年ロベルトバルカン半島への最初拡張乗り出し16,000人を引き連れてブリンディジィを出立つし、1082年までにケルキラ島ドゥラス占領しさらには1081年10月には東ローマ皇帝アレクシオス1世コムネノスデュッラキウムの戦い撃破さえした。ロベルト息子であるマルコ・ボヘモンドはテッサリア支配しロベルト不在の間の1081~82年征服試みたものの最終的に失敗した1084年ロベルト帰還しケルキラ島ケファロニア島占領することで取戻し1085年7月15日に同島で永眠したケファロニア島小さな町フィスカルド(英語版)はロベルト・グイスカルドに因んで名付けられた。ボヘモンドはギリシャ征服追い求めることを継続はせずに、イタリアに戻る代わりに同地異母弟にあたるロベルト・スカリオ及び ルッジェーロ・ボルサとともに後継巡って対立した

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