ノルマン・東ローマ戦争、1059年–1085年
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「ノルマン人による南イタリア征服」の記事における「ノルマン・東ローマ戦争、1059年–1085年」の解説
「ノルマン・東ローマ戦争」も参照 アプーリアの大部分が遥か南方まで維持し、バーリがグリエルモ1世、ドロゴーネ兄弟やその他アルタヴィラ家の面々の遠征中に服従する一方で、カランブリアの大部分はロベルト・グイスカルドが1057年に継承した時点では東ローマが掌握したままであった。カラブリアが最初に撃破されたのは1040年代初頭のグリエルモとガイマールによってであり、ドロゴーネは野心的なグイスカルドを同地に1050年代初頭に据えた。カランブリアにおけるロベルトの最初の実績はしかしながら封建勢力や豪族略奪者との闘いに費やされ、ギリシャ系住民の服従は何も体系化されなかった。 ロベルトは自身の伯爵の領有権を掲げて直にカランブリアへの遠征を開始した。1059年 8月23日にメルフィ伯領に到達するまでに短期間妨害された、そこでロベルトは公として就任すると、後年にカランブリアへ帰還して同地ではその軍勢がカリアーティを包囲した。 公が到着すると街は降伏し、季節の終わり前にロッサーノとジェラーチェも降伏した。 イタリア半島の重要な都市はロベルトが冬にアプリアに帰還した時点ではわずかにレッジョが東ローマの手にあった。アプリアにてロベルトは東ローマの守備兵を一時的にはあるにせよターラントとブリンディジから移動させた。1060年にカランブリアに帰還した際にはシチリアの拡張は大いに開始された。レッジョの陥落は長く骨の折れる包囲の末に獲得したものであった。しかしながらロベルトの兄弟のルッジェーロ1世は当座しのぎに攻城兵器を用意していた。 レッジョの陥落後に東ローマの守備兵は同地の島の要塞であるシッラに逃れたが早期に敗れている。ルッジェーロ1世の海峡を越えた小規模な襲撃は撃退され、1060年後半に東ローマ皇帝コンスタンティノス10世ドゥーカスによってアプリアに派遣された同国の大軍の存在がロベルトを呼び戻した。カタパノ(イタリア語版)のミリアクラ(英語版)のもと東ローマ軍はターラント、ブリンディジィ、オーリア、オトラントを奪回した。 1061年1月にノルマン人の首都であるメルフィが包囲された。しかしながら5月までにロベルト、ルッジェーロ1世兄弟によって東ローマ軍は駆逐されてアプーリアの平和は回復された。 トラニ伯ピエドロ1世の息子であるゴフリード(イタリア語版)は1063年にオトラントを1064年にターラントを 征服して同都市を自伯領の所有地とした。1066年には軍を編成して海を越えて東ローマ領バルカン半島を攻撃したが、バーリ付近で、ミカエル・マウリカス(英語版)率いる最近新たに着任したヴァラング新衛兵によって阻止された。ミカエルはブリンディジィと短期間ではあるがターラントを奪回し、かつてニケフォロス・カランテノス(英語版)のもとでブルガリア人との戦いを経験した兵士達を駐屯軍として置いた。ミカエルはイタリアのノルマン人に対する一連の成功をしたものの、それは東ローマがこの地区に与えた最後の意義のある脅威であった。東ローマ・カタパノ領の首都であったバーリは1068年8月からノルマン人によって包囲された。1071年4月には、バーリの陥落(イタリア語版)によって、東ローマ総督の最後の前哨兵は西欧から消失した。 ランゴバルド(イタリア語版)・テマ区だったアプーリアとカランブリアからの東ローマ駆逐後にロベルト・グイスカルドはバルカンの東ローマ領やギリシャ本土に攻撃の狙いを定めた。ビザンツにとって幸運だったのは廃嫡されたプッリャ伯ウンフレートの息子でロベルトの甥であるアベラルド(イタリア語版)とエルマーノ(イタリア語版)の兄弟が味方になったことである。兄弟のロベルトに対する反乱は、同じく彼に対抗する形で自領(英語版)を東ローマの宗主下に認めていたモンテ・サンタンジェロ伯エンリーコ(英語版)を支援した。 1081年にロベルトはバルカン半島への最初の拡張に乗り出し、16,000人を引き連れてブリンディジィを出立つし、1082年までにケルキラ島とドゥラスを占領し、さらには1081年10月には東ローマ皇帝アレクシオス1世コムネノスをデュッラキウムの戦いで撃破さえした。ロベルトの息子であるマルコ・ボヘモンドはテッサリアを支配し、ロベルト不在の間の1081~82年に征服を試みたものの最終的には失敗した。1084年にロベルトは帰還してケルキラ島とケファロニア島を占領することで取戻し、1085年7月15日に同島で永眠した。ケファロニア島の小さな町フィスカルド(英語版)はロベルト・グイスカルドに因んで名付けられた。ボヘモンドはギリシャ征服を追い求めることを継続はせずに、イタリアに戻る代わりに、同地で異母弟にあたるロベルト・スカリオ及び ルッジェーロ・ボルサとともに後継を巡って対立した。
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