『バビロニア誌』の功績
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「ベロッソス」の記事における「『バビロニア誌』の功績」の解説
ベロッソスの功績は、まず第一に、ヘレニズム的な歴史叙述方法とメソポタミア的な記述を組み合わせ、独自の構成を作り上げたというところにあるとみられている。ヘロドトスやトゥキュディデスのように、彼はおそらく後世の著述家のために自筆したと思われる。その他では、彼はヘロドトスがエジプトに対して行なったようなバビロニアについての地誌的な記述をいれ、ギリシア的な分類方法を適用している。彼が、とくに詳しくない時代である最初期の歴史について、その調査に情報を追加することに抵抗していたとする証拠が少しある。第三書に至ってようやく、我々は描写内に彼の意見を見ることができるようになる。 第二に、彼はヘロドトスや『旧約聖書』のように、世界の創造から彼の同時代までの物語を構築した。そのなかに、神聖なる神話は歴史と途切れなくつながっている。ベロッソスがヘレニズム的な神々の存在や神話に対する懐疑主義を信奉していたかどうかはわからないが、たとえば諷刺的なオウィディウス以上にそうした事象を信仰していたということはいえよう。シュンケロスの伝えているような自然主義的な態度は、おそらくベロッソス自身のものというよりは、彼を伝えた後代のギリシア人著述家たちの影響によるものだろう。 とはいえ、彼の同時代もそれに続く時代も、『バビロニア誌』が広く読まれることはなかった。VerbuggheとWickershamは、『バビロニア誌』に対するヘレニズム的世界の関心の欠如は、シケリアのディオドロスの同様に奇妙なエジプト神話についての著作が残っていることからして、内容自体にヘレニズム的世界と関連性がなかったわけではない、と論じている。むしろ逆に、パルティア朝下におけるメソポタミアとギリシア・ローマ世界とのつながりの減少に部分的に原因が着せられるのではないかと思われる。また、ベロッソスは、特に自分の詳しくなかった時代について、物語を描くための資料があったにしても、その著作の中に多くの物語を入れてはいなかった。VerbuggheとWickershamはこう指摘する。 たぶん、ベロッソスは自身の方法論と目的に囚われていたのだ。彼は使用した古代の記録に肉付けすることを嫌い、より近い時代の歴史についても、残されたものから判断するならば、それは物語の骨子以外の何者でもなかった。ベロッソスが、歴史にパターンを繰り返す連続性があると信じていたとするならば(つまり、天体の運行と同じように出来事にも周期性があるということ)、物語の骨子で充分だったのである。事実、これはバビロニア人ができただろうか(できるだろうか)と疑う以上のものなのである。すでにバビロニアの歴史譚に没頭していればそのパターンに気づき、ベロッソスの歴史解釈を理解するだろう。事実、もしも、こうしたことがベロッソスの想定内だとすれば、彼は、善悪を単純化し、多様で生き生きとした歴史物語に慣れきっていたギリシアの読者を楽しませることを犠牲にした、という点でミスを犯したのだ(2000: 32)。 ベロッソスの著作のうち残りは、メソポタミアの歴史を再構築するのに無用なものだった。学者にとって大きな関心があるのは、彼の歴史叙述に対するアプローチであり、それはギリシアとメソポタミア両方の方法論に縛られていたものだった。ベロッソスの方法論と古代世界の「歴史」としてのヘシオドス、ヘロドトス、マネト、そして『旧約聖書』(とくにモーセ五書)の類似性は、古代人による世界観についてのヒントを与えてくれる。いずれも始まりは空想的な創造説話で、神話的な祖先の時代が続き、そして最終的に歴史的であるとされる最近の王たちの記述へと連なっていく。断絶は存在しない。Blenkinsoppはこう述べている。 ベロッソスは「歴史」を構築するにあたって、特に『エヌマ・エリシュ』や『アトラ・ハシース物語』、王名表のようなよく知られた資料などに見られるメソポタミアの神話-歴史叙述伝統にのっとった。それらの資料は普遍史の叙述における出発地点や概念的枠組を提供したのである。しかし、神話的あるいはアーカイックな要素は、ある程度は真に歴史的であるといわれているような支配者たちの年代記に組み込まれた(1992: 41)。
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