最初期の交流
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/11 14:05 UTC 版)
北米から日本への間接的な交易は17世紀初頭の南蛮貿易の頃に始まった。しかし、日本と後にアメリカ合衆国となったヨーロッパの北米植民地との間には直接の接触はなく、交易は支配国(宗主国)であるスペインやポルトガルを介して行われた。 ヌエバ・エスパーニャ(後のメキシコ)から出航した数隻のスペイン船は日本との接点を築き、クリストファーとコスマスのような日本人の船員は、スペインのガレオン船によって1587年にはアメリカ大陸にたどり着いていたことで知られている。1610年、田中勝介は20人の日本の使節団の一員として、ウィリアム・アダムスが建造し徳川家康により貸し出された「サン・ブエナ・ベントゥーラ」によるドン・ロドリゴの帰郷に同行し、後にアメリカによって併合された領域を含むヌエバ・エスパーニャへと渡った。翌1611年には田中勝介らとともにセバスティアン・ビスカイノが答礼使として日本を訪れ、現在のアメリカの州であるカリフォルニアと公式な関係を築くことを提案した。 1613年に仙台藩がセバスティアン・ビスカイノの協力を得て建造した「サン・ファン・バウティスタ」によってカリフォルニアのメンドシーノ岬にたどり着いた支倉常長ら慶長遣欧使節はヌエバ・エスパーニャ副王によって歓待され、1614年にアカプルコからメキシコシティを経て、ヌエバ・エスパーニャ大西洋岸のサン・フアン・デ・ウルアを出航しヨーロッパへと向かった。しかし、1650年に江戸幕府が鎖国令を施行し、日本におけるほぼ全ての海外貿易は終焉を迎えた。オランダ人と琉球人、朝鮮人、中国人のみが日本国内に入国することが許可され、それも限られた人数のみだった。18世紀後半にアメリカが独立を成し遂げたとき、両国の間には何の交流もなかった。19世紀初頭を通じて、アメリカとヨーロッパ諸国は日本に対し外交政策を見直し、開国するよう軍事力で恫喝する事を試みた。
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