釈迦ヶ池遊猟事件
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神社の裏にある釈迦ヶ池はカモの猟場であったが、網を使った猟のみが許され、銃の使用は禁止されていた。明治13年(1880年)来日中だったプロイセン王子ハインリヒがお忍びでこの地にカモ猟に来て、この掟を知らずカモを銃で撃ったため、附近の住民に殴られる事件が起きた。 この問題は日本とドイツの外交問題に発展する。ヨーロッパの強国であったドイツに対し、明治維新から間もなく、いまだ国力も未熟な当時の日本政府は全面的に低姿勢に徹し、事件を処理した警察官8名を免職、さらに事件関係者に謝罪させることで解決を図った。ドイツ側への謝罪式は本神社の境内で行われ、関係者一同を連れ、礼服に身を固めた吹田村の村長が、王子の前で謝罪文を読み上げるというものであった。参道には見物人が人だかりを作ったという。さらに政府は、事件処理の詳細が洩れて世論から軟弱外交の非難を受けるのを恐れ、報道統制で事件の顛末を徹底的に隠した。この件を記事にしようとしたある新聞記者は逮捕され、禁固刑にされた。約10年後の大津事件の前例とも言える、明治前期の日本外交史の一幕であった。
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釈迦ヶ池遊猟事件
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「ハインリヒ・フォン・プロイセン (1862-1929)」の記事における「釈迦ヶ池遊猟事件」の解説
1879年5月、海軍士官候補生時代に大日本帝国を訪れ、皇族として待遇され歓迎を受ける。また、この際に明治天皇に謁見している。接待役には蜂須賀茂韶があたった。 翌1880年2月7日、大阪府島下郡小路村(現・大阪府吹田市岸部北)の「禁猟制札の場所」である釈迦ヶ池(吉志部神社のある紫金山の背後に位置する)で、当時神戸に滞在していたハインリヒは、禁猟区域であるにもかかわらずお供を連れてお忍びで鴨猟をしていた。そのため、皇孫だということを知らない七尾村の井田元吉がハインリヒを殴打した。このことに立腹したプロイセン王国側が、その翌日、皇孫に対して不敬のふるまいがあったとして、大阪府ならびに外務省に抗議を申し入れたため、外交問題に発展した。談判の結果、同月14日に至って、大阪府庁と吉志部神社で「謝罪式」が行われ、関係者13名が処分され落着した。取調処理を安直にすませた巡査8人は不敬を犯したとして免職、警部5人は1か月の俸給停止処分を受けた。(日独間の裁判権の取り決めは1869年締結の日本国独逸北部連邦修好通商航海条約で定められていた。) この日本側の一方的謝罪という事件処理は、当時の日本とプロイセンとの国力の格差を政府が考慮した結果であったが、この弱腰外交に対する世論の反発を危惧した日本政府は、報道統制で事件を国民から隠そうとした。ある新聞記者はこの事件を記事に書こうとしたため、禁固刑にされた。 ハインリヒは1899年に日本を再訪し、1912年には明治天皇の大喪の礼にドイツ代表団の一員として参列している。
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