石窟庵とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 文化 > 世界遺産 > 石窟庵の意味・解説 

石窟庵

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/06/11 03:02 UTC 版)

石窟庵
所在地 慶尚北道慶州市進峴洞999
位置 北緯35度47分42秒 東経129度20分57秒 / 北緯35.79500度 東経129.34917度 / 35.79500; 129.34917 
本尊 釈迦如来
創建年 774年 新羅恵恭王10年)
開基 金大城
別称 石窟寺
テンプレートを表示
石窟庵
阿閦如来座像
各種表記
ハングル 석굴암
漢字 石窟庵
発音 ソックラム
日本語読み: せっくつあん
ローマ字 Seokguram
テンプレートを表示

石窟庵(ソックラム、석굴암)は、大韓民国慶尚北道慶州市にある仏教遺跡吐含山の麓にある。元々「石仏寺」と呼ばれていたが、「石窟」「趙家寺」などを経て、「石窟庵」と呼ばれるようになったのは、再発見・修復された日本統治時代以降である[1]

1962年12月20日大韓民国国宝第24号に指定された。また、1995年に石窟庵から約4キロメートルほど離れた仏国寺とともに、「石窟庵と仏国寺」として世界遺産(文化遺産)に登録された。

概要

建立と放置

新羅景徳王恵恭王の時代の宰相だった金大城700年 - 774年)が自分の父母のために「石仏社」を建立した、と高麗時代の『三国遺事』に記されており、石仏社が仏国寺の位置に近いことから石窟庵のことであると考えられている。751年(景徳王10年)に建立が開始され、774年(恵恭王10年)に完成した[2]。その後、1392年から儒教を中心とした朝鮮時代が500年以上続き、朝鮮の仏教は弾圧を受けたため、慶州は貴族の関心から遠ざかることになる。 しかし、朝鮮粛宗29年(1703)、英祖34年(1758)に石窟庵を補修したという記録があり、丁時翰(1625~1707)の紀行文である<山中日記>、1733年に描かれた<嶠南名勝帖>に石窟庵の全室が登場するなど、朝鮮後期まで維持されたものと見られる。

しかし、仏国寺が没落し、廃寺になった後、石窟庵も忘れられる。


発見と日本による補修

発見された当時の石窟庵
石窟庵
韓国内の位置

1909年、郵便配達員が配達のため吐含山の峠を越えようとしたところ、突然豪雨に見舞われ山中の洞窟に逃げ込んだ。その洞窟の中に偶然仏像を発見した。当時の石窟庵は崩壊寸前で、倒壊の恐れがあった。天井が抜け落ち、仏像に直接雨が当たり、周囲の仏像の配置もすでに不明で、全体の半分以上が土に埋もれていた。そのため、日本統治時代の1913年から1915年にかけ、日本により三度にわたる大規模な修復工事が行われた。工事には当時としては最新の技術であるセメントが使われた[1]

韓国による補修

朝鮮戦争前後の混乱期に再び放置されたが、1961年から1963年にかけて韓国の文化財管理局の主導で補修工事が行われた。湿度の問題を改善するため、後部をさらにセメントで塞ぎ、全面をガラス張りにして人工的に除湿したが、見物客から排出される二酸化炭素などによる花崗岩の損傷が指摘されることとなった。また、1961年に建てられた木造の前室も換気を妨げる要素とされる。また、「仏像の配置は日本がデタラメに並べた」として、仏教の経典に照らし合わせ、独自の並べ替えを行った。しかしその補修後、発見当時の石窟庵の写真および事前調査の詳細な配置図が見つかり、日本が行った補修・配置が正しかったことが発覚した。しかし配置は今なお復元されていない[3]

現在

石窟入口はガラス板で覆われ、内部に入れなくなっている。そのため一般者は前室からガラス越しに見学する。石窟の周囲には、分解移動後の杜撰な作業により配置する場所がわからなくなった石材が展示されている。

韓国では「本尊となる仏像は2体あった、1体は日本に盗まれた」と考えられていたが、学術的な調査の結果、これは誤りであり最初から仏像は1体であったことが報告された[4]

中央日報のアン・ヘリ論説委員によると、韓国では2019年にテレビバラエティ番組で韓国史講師による「石窟庵は1000年以上に完璧に保存されてきたが、日本が嫉妬してセメントとコンクリートを塗って傷つけた」という虚偽の主張が放送され、日本は嫉妬で盲目になり石窟庵を傷つけた野蛮国家として韓国大衆の袋叩きにされたが、講師や放送局が訂正や謝罪をしたという話は聞かなかったという。アン論説委員は、韓国では「何でも反日」はいつもこのように免罪符を受けてきたが、韓国国民の愚民化を招いていると批判した[1]

脚注

  1. ^ a b c [안혜리의 시선 ‘닥치고 반일’이라는 우민화 정책]” (朝鮮語). news.naver.com. 2019年5月11日閲覧。
  2. ^ 三国遺事』巻五・孝善・大城孝二世父母 神文代
  3. ^ 世界文化遺産「石窟庵」、60年代の復元工事に誤り _ Chosun Online _ 朝鮮日報” (2007年9月23日). 2007年10月18日時点のオリジナルよりアーカイブ。2019年5月13日閲覧。
  4. ^ 「石窟庵(ソクラム)仏像、日帝に略奪されていなかった」 ハンギョレ新聞 2014.05.27

関連項目

外部リンク

座標: 北緯35度47分42秒 東経129度20分57秒 / 北緯35.79500度 東経129.34917度 / 35.79500; 129.34917


石窟庵

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/07 03:08 UTC 版)

石窟庵と仏国寺」の記事における「石窟庵」の解説

石窟庵石窟 国宝24号。本尊阿閦如来座像花崗岩組み合わせて人工的に作られ石窟寺院で、新羅時代仏教美術最高傑作とされる

※この「石窟庵」の解説は、「石窟庵と仏国寺」の解説の一部です。
「石窟庵」を含む「石窟庵と仏国寺」の記事については、「石窟庵と仏国寺」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「石窟庵」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「石窟庵」の関連用語

石窟庵のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



石窟庵のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
近畿日本ツーリスト近畿日本ツーリスト
Copyright(C) All rights reserved by Kinki Nippon Tourist.
近畿日本ツーリスト世界遺産
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの石窟庵 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの石窟庵と仏国寺 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS