鉄刀銘文
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1915年(大正4年)に発掘された1号墳出土品の1つであった円頭大刀はその後、刀身の先端部分が破損し、1983年(昭和58年)になって元興寺文化財研究所が保存処理を行うことになった。その際にX線をあてたところ、銀象嵌の銘文が見出された。現在確認される部分は12文字だけであり、「各田卩臣」(額田部臣)の他数文字が確認できるだけで、他は解読不能もしくは困難で文章の全容を解読するには至っていない。また、破損部分にも文字が記載されていた可能性もある。額田部臣は『出雲国風土記』にも登場する豪族で、氏の記載としては隅田八幡神社人物画像鏡の次に古く、部姓の記載された事物としては日本最古にあたる。 銘文は以下の通り、 各田卩臣□□□□□大利□ 解読不能もしくは困難になっている□については、9文字目は「素」とみられる。5文字目は「令」説と「今」説、6文字目は「阿」説と「河」説がある。
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鉄刀銘文
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/24 21:29 UTC 版)
出土品のうち銀錯銘大刀(ぎんさくめいたち)と呼ばれる直刀には以下の75字の銘文がある。なお、「〓」は損傷により判読不可能な文字であることを示す。 台(治)天下獲〓〓〓鹵大王世、奉事典曹人名无〓(利ヵ)弖、八月中、用大鉄釜 并四尺廷刀、八十練、〓(九ヵ)十振、三寸上好〓(利ヵ)刀、服此刀者、長寿、子孫洋々、得〓恩也、不失其所統、作刀者名伊太〓(和)、書者張安也(読みは東野治之による) この銘文の読み方や内容、意義等については鉄剣・鉄刀銘文の項目を参照。 大刀の刀身の平地には片面に花と馬、片面に魚と鳥が銀象嵌で表され、上記の銘文は棟の部分に銀象嵌で表されている。銘文にある「獲〓〓〓鹵大王」は、獲を「蝮(たじひ)」、鹵を「歯」と読んで、反正天皇 多遅比瑞歯別尊(たじひのみずはわけのみこと)(日本書紀)または水歯別命(古事記)と長い間推定されてきたが、埼玉県行田市稲荷山古墳から出土した金錯銘鉄剣に、1978年に「獲加多支鹵大王」という文字が発見されたことから、この文言は「ワカタケル大王」と読むことが分かった。ワカタケル大王は、雄略天皇に比定されている。この東西日本の古墳から同じ王名を記した刀剣が出土したことは、ヤマト王権の支配が広域に及んでいたことを示す。 被葬者のムリテ(无〓(利ヵ)弖:无利弖)は雄略の宮廷で役所に勤務する文官「典曹人(てんそうじん)」として仕えた。また、東国の稲荷山古墳の被葬者ヲワケは宮廷の親衛隊長「杖刀人首(じょうとうじんのかしら)」として仕えた。5世紀中葉以降のヤマト政権は、各地域社会から出身の大・中・小首長達を宮廷に出仕させ、王権が直接掌握し、倭社会を統治していたことが考えられる。 なお、金錯銘鉄剣の銘文は両刃剣の側面の幅広い部分に大きく彫られているが、銀象嵌銘大刀の銘文は片刃刀の幅の狭い峰(背)の部分に彫られている。金錯銘鉄剣と比べても判読不明な字が多いことの一因である。大正末期に日本刀の研師により研磨されたために象嵌が失われたと考えられている。
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