水無瀬離宮
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/02 08:46 UTC 版)
この地には、もともと内大臣源通親の別荘である水無瀬別業があった。正治2年(1200年)1月にこの別荘に行幸した後鳥羽上皇は、ここを気に入ると通親から別荘を譲り受けて離宮・水無瀬殿とした。早速同年閏2月に上皇は離宮に行幸すると、この地の名称を広瀬に改め、やがて水無瀬殿も広瀬殿と呼ばれるようになった。また、かつての嵯峨天皇の離宮であった河陽御所の跡地には石清水八幡宮(ここでは現・離宮八幡宮のこと)が建てられていたため、上皇は付近に新しく萱御所を建てて行幸している。 しかし、建仁2年(1202年)5月に大雨が降って水無瀬川が溢れて離宮の一部の建物が流される被害が出ると、翌建仁3年(1203年)1月には離宮を放棄するという噂が広まっている。が、離宮は修理された。この後、上皇は何度も水無瀬離宮を訪れている。 建保4年(1216年)8月に再び暴風雨で水無瀬川が溢れると離宮は大きな被害を出した。そのために上皇は「山上」に新たな離宮を建てることとした。翌建保5年(1217年)1月から工事が行われて新たな御所が完成すると、この新しい御所は水無瀬殿上御所と呼ばれ、以前の御所は水無瀬殿下御所と呼ばれるようになった。両御所は上皇が隠岐に流されると荒れ果ててしまった。
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