嵯峨朝
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大同4年(809年)東宮傅として仕えた嵯峨天皇が即位すると正三位・中納言に任ぜられ、翌大同5年(810年)には大納言に昇進する。弘仁3年(812年)には右大臣・藤原内麻呂の薨去に伴い、園人は嵯峨天皇の厚い信任の下右大臣に任官し、太政官の首班に立った。また、弘仁5年(814年)には従二位に叙せられると共に、6月に万多親王らと『新撰姓氏録』を嵯峨天皇へ提出している。 『日本後紀』等によれば、園人が主導する政府の施政方針は、参議時代から提唱していた百姓撫民及び権門抑制だったと考えられている。しかし園人の精力的な取り組みにも関わらず、社会状況は必ずしも好転しなかったようである。また園人の施政は独自のものではなく、前代の桓武天皇や藤原緒嗣らの路線を踏襲したものと評価する見解もある。園人の次に太政官首班となった藤原冬嗣は律令支配路線を大きく転換し、権門による開発の規制緩和を実施していった。 弘仁9年(818年)12月19日薨去。享年63。最終官位は右大臣従二位兼行皇太弟傅。嵯峨天皇はその死を非常に惜しみ、葬儀へ使者を遣わすと共に、左大臣正一位の官位を贈った。空海も園人への追悼の書を記している。
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嵯峨朝
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大同4年(809年)賀美能親王の即位(嵯峨天皇)に伴って一挙に四階昇進して従四位下・左衛士督に叙任される等、春宮時代から仕えた側近として嵯峨天皇からの信頼が厚く、大同5年(810年)平城宮に移った平城上皇と尚侍・藤原薬子に対抗して、嵯峨天皇が秘書機関として蔵人所を設置すると、巨勢野足と共に初代の蔵人頭に任ぜられる。 同年9月に発生した薬子の変 (平城太上天皇の変)に伴い、長兄の参議・藤原真夏が失脚する。一方で、冬嗣は11月に従四位上に叙せられると、翌弘仁2年(811年)に参議に任ぜられ公卿に列す。弘仁3年(812年)10月に父の右大臣・藤原内麻呂が没すると同年11月に正四位下、弘仁5年(814年)には年齢は1歳上ながら桓武朝において異例の昇進を遂げ、冬嗣より10年近く早く参議となっていた藤原式家の緒嗣をも追い越し従三位に叙せられるなど、嵯峨天皇の下で急速に昇進する。しかし内麻呂の没後は、右大臣・藤原園人が藤原氏の氏上として一族および政権を統括しており、一介の参議であった冬嗣は対抗できる立場になかった。 当時、嵯峨天皇の後宮には妃・高津内親王と夫人・橘嘉智子がおり、それぞれ業良親王と正良親王を儲けていた。血筋の面からは高津内親王が后として第一の存在であったが、嘉智子は類い希なる美貌の持ち主で嵯峨天皇から厚い寵愛を受けていた。ここで、高津内親王の廃妃が行われ、弘仁6年(815年)に橘嘉智子が立后するが、これについて、以下理由で冬嗣の策謀であったとする見方がある。 冬嗣にとって、妻の藤原美都子を通じて、橘嘉智子は遠縁にあたる。 橘嘉智子の父である橘清友が既に没しており、外戚が堅固でなかった。 橘嘉智子の高祖母である県犬養橘三千代が、冬嗣の高祖父である藤原不比等と再婚していおり、藤原氏と橘氏は縁戚関係にあった。 嘉智子の立后後、冬嗣と嘉智子の連携を見て自身の出処進退を悟ったためか、藤原園人は平城朝から嵯峨朝にかけて積極的に行ってきた政策提言をほとんどやめてしまう。一方で、冬嗣はその後、弘仁7年(816年)10月に文室綿麻呂を越えて権中納言に任ぜられると、わずか4ヶ月後の弘仁8年(817年)2月に中納言に抜擢される。 冬嗣は中納言就任を機に、同年9月に父の内麻呂が深く帰依した法華経に因んで、興福寺南円堂の前で初めて法華会(法華経講説の法会)を開催する。この法会は毎年9月30日から内麻呂の忌日である10月6日までの開催であったが、既に宮中三大会として朝廷の行事となっていた興福寺講堂で行われる維摩会が10月10日から藤原鎌足の忌日である10月16日まで行われていることから、維摩会を意識して法華会を創始したことは明らかである。この時点では、20歳年長で先任の中納言である藤原葛野麻呂が健在であり、園人の後を受けて氏長者となる可能性もあった。そのため、冬嗣は法華会の開催により内麻呂の後継者であることを強調することで、氏長者となるために葛野麻呂に対して優位に立とうとしたものと考えられる。 弘仁9年(819年)6月に冬嗣は藤原葛野麻呂を越えて大納言に任ぜられると、同年12月の右大臣・藤原園人の薨去により、台閣の首班に立ち、弘仁12年(821年)には右大臣に昇った。嵯峨朝後半には『弘仁格式』(弘仁11年〔820年〕完成)や『内裏式』(弘仁12年〔821年〕完成)の編纂を主導し、嵯峨親政体制の構築に尽力した。また、弘仁3年(812年)に父・内麻呂が没したのち、冬嗣は左近衛大将の官職を引き継いでおり軍事面でも中心的な立場にあった。 弘仁14年(823年)嵯峨天皇が淳和天皇に譲位するが、これに前後して冬嗣の長男・藤原良房と嵯峨天皇の娘・源潔姫の結婚と、冬嗣の娘・藤原順子の嵯峨天皇の皇子で新春宮の正良親王(のち仁明天皇)への入内が行われる。この嵯峨天皇家と冬嗣家の二重の婚姻、特に順子の入内は天皇家の外戚としての冬嗣の立場を確立するとともに、淳和天皇の言動に掣肘を加え、その外叔父である大納言・藤原緒嗣を抑えるものであったと考えられる。
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嵯峨朝
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大同4年(809年)5月に嵯峨天皇が即位するが、皇太子時代から関係を深めていた天皇の信任を元に引き続き政権を主導する。同年12月に平城上皇が平城宮へ移動すると、翌大同5年(810年)3月に蔵人頭が設置される。蔵人頭の職掌は奏請(臣下の言葉を天皇に奏上)と伝宣(天皇の言葉を臣下に伝達)だが、これはこれまで内侍の職掌であったことから、その設置は平城上皇と尚侍・藤原薬子の行動を掣肘する意味合いが強かった。ここで蔵人頭に任ぜられたのが藤原冬嗣(と巨勢野足)であったことから、設置は内麻呂の発案によるものと想定される。蔵人頭の設置により、嵯峨天皇と平城上皇の関係が急速に悪化する中、内麻呂は引き続き嵯峨天皇の重臣として行動するが、長男の真夏が平城上皇の側近として活動した事は黙認したらしい。これについては、同年末から翌年夏頃にかけて嵯峨天皇が体調不良に陥っており、万一、嵯峨天皇が崩御して皇太子の高岳親王(平城天皇皇子)が即位し平城上皇の政治的影響力が飛躍的増大するという事態に備えたものとする意見がある。 同年9月に発生した薬子の変では、坂上田村麻呂(内麻呂の義兄弟)らの迅速な軍事行動により嵯峨天皇方が圧勝するが、嵯峨天皇の病状回復が十分でない中、嵯峨天皇側の軍事活動は内麻呂と田村麻呂の緊密な連携により実現された可能性が高く、変において内麻呂が果たした役割は極めて大きかったと考えられる。 弘仁3年(812年)9月20日に激しい喉の渇き、視力の衰え、足の痛みによる歩行困難(重度の糖尿病か)のために、既に再起不能として辞職を願い出るが、嵯峨天皇は許さなかった。25日に嵯峨天皇が大原野で狩猟した際に奉献(物品の献上)を行っているが、10月6日に薨御。享年57。最終官位は右大臣従二位。没後、従一位・左大臣の官位を贈られた。
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