嵯峨朝とは? わかりやすく解説

嵯峨朝

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/11/25 08:43 UTC 版)

藤原園人」の記事における「嵯峨朝」の解説

大同4年809年東宮傅として仕えた嵯峨天皇即位する正三位中納言に任ぜられ、翌大同5年810年)には大納言昇進する弘仁3年812年)には右大臣藤原内麻呂薨去に伴い、園人は嵯峨天皇の厚い信任の下右大臣任官し太政官首班立ったまた、弘仁5年814年)には従二位叙せられると共に6月万多親王らと『新撰姓氏録』を嵯峨天皇提出している。 『日本後紀』等によれば、園人が主導する政府施政方針は、参議時代から提唱していた百姓撫民及び権門抑制だったと考えられている。しかし園人の精力的な取り組みにも関わらず社会状況は必ずしも好転しなかったようである。また園人の施政独自のものではなく前代桓武天皇藤原緒嗣らの路線踏襲したものと評価する見解もある。園人の次に太政官首班となった藤原冬嗣律令支配路線大きく転換し権門による開発規制緩和実施していった。 弘仁9年818年12月19日薨去享年63最終官位右大臣従二位兼行皇太弟傅。嵯峨天皇はその死を非常に惜しみ葬儀使者遣わすと共に左大臣正一位官位贈った空海も園人への追悼の書を記している。

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嵯峨朝

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/22 14:49 UTC 版)

藤原冬嗣」の記事における「嵯峨朝」の解説

大同4年809年)賀美能親王即位嵯峨天皇)に伴って一挙に四階昇進して従四位下・左衛士督に叙任される等、春宮時代から仕えた側近として嵯峨天皇からの信頼厚く大同5年810年平城宮移った平城上皇尚侍藤原薬子対抗して嵯峨天皇秘書機関として蔵人所設置すると、巨勢野足と共に初代蔵人頭に任ぜられる。 同年9月発生した薬子の変 (平城太上天皇の変)に伴い長兄参議藤原真夏失脚する一方で、冬嗣は11月従四位上叙せられると、翌弘仁2年811年)に参議に任ぜられ公卿列す弘仁3年812年10月に父の右大臣藤原内麻呂没する同年11月正四位下弘仁5年814年)には年齢1歳上ながら桓武朝において異例の昇進遂げ、冬嗣より10年近く早く参議となっていた藤原式家の緒嗣をも追い越し従三位叙せられるなど、嵯峨天皇の下で急速に昇進する。しかし内麻呂没後は、右大臣藤原園人藤原氏氏上として一族および政権統括しており、一介参議であった冬嗣は対抗できる立場になかった。 当時嵯峨天皇後宮には妃・高津内親王夫人橘嘉智子がおり、それぞれ業良親王正良親王儲けていた。血筋の面からは高津内親王が后として第一存在であったが、嘉智子類い希なる美貌持ち主嵯峨天皇から厚い寵愛受けていた。ここで、高津内親王廃妃が行われ、弘仁6年815年)に橘嘉智子立后するが、これについて、以下理由で冬嗣の策謀であったとする見方がある。 冬嗣にとって、妻の藤原美都子通じて橘嘉智子遠縁にあたる。 橘嘉智子の父である橘清友が既に没しており、外戚堅固でなかった。 橘嘉智子高祖母である県犬養橘三千代が、冬嗣の高祖父である藤原不比等再婚していおり、藤原氏橘氏縁戚関係にあった。 嘉智子立后後、冬嗣と嘉智子連携見て自身出処進退悟ったためか、藤原園人平城朝から嵯峨朝にかけて積極的に行ってきた政策提言をほとんどやめてしまう。一方で、冬嗣はその後弘仁7年816年10月文室綿麻呂越えて権中納言に任ぜられると、わずか4ヶ月後の弘仁8年817年2月中納言抜擢される。 冬嗣は中納言就任機に同年9月に父の内麻呂深く帰依した法華経因んで興福寺南円堂の前で初め法華会法華経講説法会)を開催する。この法会毎年9月30日から内麻呂忌日である10月6日までの開催であったが、既に宮中三大会として朝廷行事となっていた興福寺講堂行われる維摩会10月10日から藤原鎌足忌日である10月16日まで行われていることから、維摩会意識して法華会創始したことは明らかである。この時点では、20歳年長先任中納言である藤原葛野麻呂健在であり、園人の後を受けて氏長者となる可能性もあった。そのため、冬嗣は法華会開催により内麻呂後継者であることを強調することで、氏長者となるために葛野麻呂に対して優位に立とうしたもの考えられる弘仁9年819年6月に冬嗣は藤原葛野麻呂越えて大納言に任ぜられると、同年12月右大臣藤原園人薨去により、台閣首班に立ち、弘仁12年821年)には右大臣に昇った。嵯峨朝後半には『弘仁格式』(弘仁11年820年完成)や『内裏式』(弘仁12年821年完成)の編纂主導し嵯峨親政体制構築尽力したまた、弘仁3年812年)に父・内麻呂没したのち、冬嗣は左近衛大将官職引き継いでおり軍事面でも中心的な立場にあった弘仁14年823年嵯峨天皇淳和天皇譲位するが、これに前後して冬嗣の長男藤原良房嵯峨天皇の娘・源潔姫結婚と、冬嗣の娘・藤原順子嵯峨天皇皇子新春宮の正良親王(のち仁明天皇)への入内が行われる。この嵯峨天皇家と冬嗣家の二重の婚姻、特に順子入内天皇家外戚としての冬嗣の立場確立するとともに淳和天皇言動掣肘加え、その外叔父である大納言藤原緒嗣抑えるものであった考えられる

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嵯峨朝

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/22 14:48 UTC 版)

藤原内麻呂」の記事における「嵯峨朝」の解説

大同4年809年5月嵯峨天皇即位するが、皇太子時代から関係を深めていた天皇信任元に引き続き政権主導する同年12月平城上皇平城宮移動すると、翌大同5年810年3月蔵人頭設置される蔵人頭職掌奏請臣下言葉天皇奏上)と伝宣天皇言葉臣下伝達)だが、これはこれまで内侍職掌であったことから、その設置平城上皇尚侍藤原薬子行動掣肘する意味合い強かった。ここで蔵人頭に任ぜられたのが藤原冬嗣(と巨勢野足であったことから、設置は内麻呂発案よるもの想定される蔵人頭設置により、嵯峨天皇平城上皇の関係が急速に悪化する中、内麻呂引き続き嵯峨天皇重臣として行動するが、長男真夏平城上皇側近として活動した事は黙認したらしい。これについては、同年末から翌年夏頃にかけて嵯峨天皇体調不良に陥っており、万一嵯峨天皇崩御して皇太子高岳親王平城天皇皇子)が即位し平城上皇政治的影響力飛躍的増大するという事態に備えたものとする意見がある。 同年9月発生した薬子の変では、坂上田村麻呂(内麻呂義兄弟)らの迅速な軍事行動により嵯峨天皇方が圧勝するが、嵯峨天皇病状回復十分でない中、嵯峨天皇側の軍事活動は内麻呂田村麻呂緊密な連携により実現され可能性高く変において内麻呂果たした役割極めて大きかった考えられる弘仁3年812年9月20日激し喉の渇き視力衰え、足の痛みによる歩行困難重度糖尿病か)のために、既に再起不能として辞職願い出るが、嵯峨天皇は許さなかった。25日嵯峨天皇大原野狩猟した際に奉献物品献上)を行っているが、10月6日薨御享年57最終官位右大臣従二位没後従一位左大臣官位贈られた。

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