薬子の変
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薬子の変(くすこのへん)、または平城太上天皇の変(へいぜいだいじょうてんのうのへん)は、平安時代初期に起こった事件。810年(大同5年)に故桓武天皇皇子である平城上皇と嵯峨天皇が対立するが、嵯峨天皇側が迅速に兵を動かしたことによって、平城上皇が出家して決着する。平城上皇の愛妾の尚侍・藤原薬子や、その兄である参議・藤原仲成らが処罰された。
注釈
- ^ 薬子の変を嵯峨天皇側によって引き起こされた説を採用した場合、嵯峨天皇の病気自体が平城上皇側の油断を誘う計略であった可能性も指摘されている[5]。
- ^ 上横手雅敬は9月10日に仲成を佐渡権守に左遷する詔を出しながら、翌日の死刑に関する詔が存在しないこと、養老律には死刑の方法として射殺を認めていないことなどを挙げて、仲成の死刑が律令(法律)に基づかない嵯峨天皇による「私刑」であった可能性を指摘している。なお、上横手は天皇は本来仲成の死刑を免じるつもりで左遷の詔書を作成したものの、何らかの事情で撤回せざるを得なくなったためにやむなく法に基づかない措置を取ったと推定している[12]。
- ^ 西本昌弘は、9月10日に出された嵯峨天皇の詔で認定した薬子と仲成の罪状が異なっていることを指摘し、仲成に関して有罪とされたのは薬子を正しく教正しなかったことと伊予親王事件についてのみで、仲成の処刑が罪状に対して重すぎる処分であったとしている。このため、「仲成の怨霊化」が懸念された結果、神泉苑御霊会において、有罪と認定されたまま「観察使」の名称にて慰霊の対象に加えられたとしている(薬子がこうした扱いを受けていないのとは対照的である)[13]。
- ^ 反対に恵美押勝の乱では、孝謙上皇は真っ先に同じ平城京にあった内印と駅鈴の接収に成功して勝利を収めている[7]。
- ^ 高岳親王が事件に関与した証拠は存在せず、嵯峨天皇側も藤原仲成・薬子兄妹を首謀者として平城上皇の責任を問わなかったために、廃太子を正当化する根拠が見出せず、新しい皇太子を立てる詔だけが出され、廃太子に関する公式文書は出されなかった[14]。
- ^ 薬子の変後も平城京の平城上皇の元には平安京から派遣された参議や近衛少将級以上の武官が近侍していた[17]。これは、平城上皇の監視の意味合いがあったと思われるが、同時に天皇と同格とされた太上天皇の身分がそのまま保持されていたためにその品位を維持する意味合いも含まれていたと推測される[18]。
- ^ 酒人内親王の母は聖武天皇皇女の井上内親王。
- ^ ただし、春名は平城天皇との年齢差が大きい甘南美内親王については史料の誤記や内親王の母方の叔母である藤原薬子の意向の可能性があることも指摘する。
- ^ 春名は平城天皇と内親王の間に皇子がいればその子が立太子されたが、その皇子が誕生しなかったために、嵯峨天皇が兄の子の中から高岳親王を皇太子として選択し、平城上皇もこれに同意したと推測する。そもそも、嵯峨天皇の即位時に正良親王(仁明天皇)は生まれておらず、生年不詳である業良親王が生まれていたとしても幼少であったと推測されるため、嵯峨天皇には自分の実子を皇太子にする選択が存在していなかった(正良親王の誕生と薬子の変に伴う高岳親王の廃太子は同年同月の出来事)。
- ^ 桜田真理恵は高津内親王廃妃と橘嘉智子立后の理由の1つとして、唐風儀礼の導入を進めていた嵯峨天皇にとって中国(唐)における「同姓不婚」の風俗に反する内親王の后妃に否定的であったとする説を唱えている[45]。ただし、後に娘の正子内親王を弟の淳和天皇に嫁がせている。
- ^ 春名説を批判する立場に立つ西本昌弘も桓武天皇の晩年に発生した「徳政相論」が延暦末期から始まった大規模な疫病を原因とし、その後も大同2年から3年にかけて疫病のピークを迎えていることを指摘し、平城上皇の平城京遷都は疫病対策であった可能性を提示している[49]。
- ^ なお、律令体制において天皇・太政官側の軍事行動を「反乱」「クーデター」と呼んで良いのか、という問題提起は恵美押勝の乱に関しても発生している[53]。
出典
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- ^ 西本、2022年、161-172.
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- ^ 木本好信 「私の仲麻呂像 -反逆者像の払拭と政治観-」『奈良平安時代史の諸問題』和泉書房、2021年
平城太上天皇の変(薬子の変)
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「坂上田村麻呂」の記事における「平城太上天皇の変(薬子の変)」の解説
詳細は「薬子の変」を参照 大同4年4月1日(809年5月18日)、平城天皇は健康上の理由で皇位を皇太弟・神野親王へと譲位した。皇太子には平城天皇の第三皇子・高岳親王が立てられた。平城天皇の寵愛を受けていた藤原薬子と兄・藤原仲成は譲位に反対するものの、4月13日(809年5月30日)に神野親王が嵯峨天皇として即位する。 譲位後に健康を回復させた平城上皇は、大同4年11月、仲成に命じて平城京を修理させると、12月4日(810年1月12日)には平城京へと移り住んだ。 嵯峨天皇は大同5年(810年)3月に蔵人所を設置し、6月には平城天皇の治世で設置された観察使の制度を廃止する。これに怒った平城上皇を薬子と仲成が助長して「二所朝廷」といわれる事態になる。大同5年9月6日(810年10月7日)、平城上皇により平安京を廃して平城京へ遷都する詔勅を発せられたことで平城太上天皇の変(薬子の変)が始まる。平城京遷都の詔勅にひとまず従った嵯峨天皇は、坂上田村麻呂・藤原冬嗣・紀田上らを平城京造宮使に任命する。 しかし9月10日(810年10月11日)、嵯峨天皇は平城京遷都の拒否を決断して、固関使を伊勢国・近江国・美濃国の国府と関に派遣、同時に仲成を捕らえて右兵衛府に禁固し、佐渡権守に左遷、薬子は尚侍正三位を剥奪して宮中から追放という詔を発した。『公卿補任』によるとこの日に田村麻呂は大納言に昇進しており、子の坂上広野も近江国の関を封鎖するために派遣されている。 嵯峨天皇側の動きを知った平城上皇は激怒して9月11日(810年10月12日)早朝、挙兵することを決断し、薬子と共に輿に乗って平城京を発し、東国へと向かった。嵯峨天皇は田村麻呂を派遣。美濃道より上皇を迎え撃つにあたり、上皇側と疑われ左衛士府に禁固されていた文室綿麻呂の同行を願い出て、嵯峨天皇は綿麻呂を正四位上参議に任命した上で許可している。平城京から出発した平城上皇は東国に出て兵を募る予定だったが、田村麻呂が宇治・山崎両橋と淀市の津に兵を配したこの夜、右兵衛府で仲成が射殺された。 嵯峨天皇側の迅速な対応により上皇が9月12日(810年10月13日)に大和国添上郡越田村にさしかかったとき、田村麻呂が指揮する兵が上皇の行く手を遮った。進路を遮られたことを知り、平城上皇は平城京へと戻って剃髪して出家し、薬子は毒を仰いで自殺したことにより対立は天皇の勝利に終わった。この事件の時に空海が鎮護国家と田村麻呂の勝利を祈祷している。
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