平城太上天皇の変とは? わかりやすく解説

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薬子の変

(平城太上天皇の変 から転送)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/02/24 04:37 UTC 版)

薬子の変(くすこのへん)、または平城太上天皇の変(へいぜいだいじょうてんのうのへん)は、平安時代初期に起こった事件。810年大同5年)に故桓武天皇皇子である平城上皇嵯峨天皇が対立するが、嵯峨天皇側が迅速に兵を動かしたことによって、平城上皇が出家して決着する。平城上皇の愛妾の尚侍藤原薬子や、その兄である参議藤原仲成らが処罰された。


注釈

  1. ^ 薬子の変を嵯峨天皇側によって引き起こされた説を採用した場合、嵯峨天皇の病気自体が平城上皇側の油断を誘う計略であった可能性も指摘されている[5]
  2. ^ 上横手雅敬は9月10日に仲成を佐渡権守に左遷するを出しながら、翌日の死刑に関する詔が存在しないこと、養老律には死刑の方法として射殺を認めていないことなどを挙げて、仲成の死刑が律令(法律)に基づかない嵯峨天皇による「私刑」であった可能性を指摘している。なお、上横手は天皇は本来仲成の死刑を免じるつもりで左遷の詔書を作成したものの、何らかの事情で撤回せざるを得なくなったためにやむなく法に基づかない措置を取ったと推定している[12]
  3. ^ 西本昌弘は、9月10日に出された嵯峨天皇の詔で認定した薬子と仲成の罪状が異なっていることを指摘し、仲成に関して有罪とされたのは薬子を正しく教正しなかったことと伊予親王事件についてのみで、仲成の処刑が罪状に対して重すぎる処分であったとしている。このため、「仲成の怨霊化」が懸念された結果、神泉苑御霊会において、有罪と認定されたまま「観察使」の名称にて慰霊の対象に加えられたとしている(薬子がこうした扱いを受けていないのとは対照的である)[13]
  4. ^ 反対に恵美押勝の乱では、孝謙上皇は真っ先に同じ平城京にあった内印と駅鈴の接収に成功して勝利を収めている[7]
  5. ^ 高岳親王が事件に関与した証拠は存在せず、嵯峨天皇側も藤原仲成・薬子兄妹を首謀者として平城上皇の責任を問わなかったために、廃太子を正当化する根拠が見出せず、新しい皇太子を立てる詔だけが出され、廃太子に関する公式文書は出されなかった[14]
  6. ^ 薬子の変後も平城京の平城上皇の元には平安京から派遣された参議や近衛少将級以上の武官が近侍していた[17]。これは、平城上皇の監視の意味合いがあったと思われるが、同時に天皇と同格とされた太上天皇の身分がそのまま保持されていたためにその品位を維持する意味合いも含まれていたと推測される[18]
  7. ^ 酒人内親王の母は聖武天皇皇女の井上内親王
  8. ^ ただし、春名は平城天皇との年齢差が大きい甘南美内親王については史料の誤記や内親王の母方の叔母である藤原薬子の意向の可能性があることも指摘する。
  9. ^ 春名は平城天皇と内親王の間に皇子がいればその子が立太子されたが、その皇子が誕生しなかったために、嵯峨天皇が兄の子の中から高岳親王を皇太子として選択し、平城上皇もこれに同意したと推測する。そもそも、嵯峨天皇の即位時に正良親王(仁明天皇)は生まれておらず、生年不詳である業良親王が生まれていたとしても幼少であったと推測されるため、嵯峨天皇には自分の実子を皇太子にする選択が存在していなかった(正良親王の誕生と薬子の変に伴う高岳親王の廃太子は同年同月の出来事)。
  10. ^ 桜田真理恵は高津内親王廃妃と橘嘉智子立后の理由の1つとして、唐風儀礼の導入を進めていた嵯峨天皇にとって中国(唐)における「同姓不婚」の風俗に反する内親王の后妃に否定的であったとする説を唱えている[45]。ただし、後に娘の正子内親王を弟の淳和天皇に嫁がせている。
  11. ^ 春名説を批判する立場に立つ西本昌弘も桓武天皇の晩年に発生した「徳政相論」が延暦末期から始まった大規模な疫病を原因とし、その後も大同2年から3年にかけて疫病のピークを迎えていることを指摘し、平城上皇の平城京遷都は疫病対策であった可能性を提示している[49]
  12. ^ なお、律令体制において天皇・太政官側の軍事行動を「反乱」「クーデター」と呼んで良いのか、という問題提起は恵美押勝の乱に関しても発生している[53]

出典

  1. ^ 『詳説日本史研究』山川出版社
  2. ^ 河内、1986年、P165./2014年、162.
  3. ^ 槇道雄『仙洞年代記 上皇と法皇の歴史』八木書店、2021年 ISBN 978-4-8406-2250-9 P177.
  4. ^ 『類聚国史』巻34「天皇不予」弘仁元年正月壬寅条
  5. ^ 槇道雄『仙洞年代記 上皇と法皇の歴史』八木書店、2021年 ISBN 978-4-8406-2250-9 P174-177.
  6. ^ 『日本紀略』弘仁14年4月庚子条
  7. ^ a b c 中野渡俊治「平安時代初期の太上天皇」(初出:『花園史学』第31号(2010年)/所収:中野渡『古代太上天皇の研究』(思文閣出版、2017年) ISBN 978-4-7842-1887-5
  8. ^ 『日本紀略』大同5年7月丁巳条
  9. ^ 目崎徳衛「平城朝の政治史的考察」『平安文化史論』桜楓社、1983年、P67.
  10. ^ 多田一臣「藤原薬子-悪女譚の始原-」『国文学 解釈と鑑賞』
  11. ^ 西本、2022年、P181-182.
  12. ^ 上横手雅敬「『建永の法難』について」(所収:上横手 編『鎌倉時代の権力と制度』(思文閣出版2008年
  13. ^ 西本、2022年、P237-240.
  14. ^ 春名、2009年、P217.
  15. ^ 『日本三代実録』元慶6年5月14日条逸文
  16. ^ 遠藤慶太『仁明天皇』(吉川弘文館 人物叢書)2022年 ISBN 978-4-642-05310-5 P1.
  17. ^ 『日本後紀』弘仁2年七月乙巳条・同年9月丁未条
  18. ^ 春名、2009年、P224-229.
  19. ^ 元木泰雄 『保元・平治の乱を読み直す』 NHKブックス(2004年) pp.115-116
  20. ^ 川上多助『平安朝史』上一、内外書籍、1939年、P98.
  21. ^ 大塚徳郎「平安朝の政治」『平安初期政治史研究』吉川弘文館、1969年、P30-33.
  22. ^ 門脇禎二「薬子の乱の史的位置」『寧楽史苑』10号、1962年
  23. ^ 林陸朗「藤原緒嗣と藤原冬嗣」『上代政治社会の研究』吉川弘文館、1969年、P212.
  24. ^ 佐藤虎雄「桓武朝の皇親をめぐりて」『古代史』10巻2・3・4号、1962年
  25. ^ 佐伯有清「新撰姓氏録の時代的背景」『新撰姓氏録の研究』 研究篇、吉川弘文館、1963年、P196-207.
  26. ^ 北山茂夫「平城上皇の変についての一試論」『続万葉の世紀』東京大学出版会、1975年
  27. ^ 佐藤宗諄「嵯峨天皇論」『平安前期政治史序説』東京大学出版会、1977年
  28. ^ 橋本義彦「"薬子の変"私考」『平安貴族』平凡社、1986年。文庫版(平凡社ライブラリー)、2020年
  29. ^ 西本、2022年、P176-179.
  30. ^ 河内、1986年、P153-157./2014年、152-155.
  31. ^ 『本朝皇胤紹運録』
  32. ^ 『日本紀略』延暦11年丁卯条。
  33. ^ 『日本三代実録』延暦11年丁卯条。
  34. ^ 河内、1986年、P153-157・170-171./2014年、152-155・166-167.
  35. ^ 河内、1986年、P159-171./2014年、156-161.
  36. ^ 河内、1986年、P172-178./2014年、168-173.
  37. ^ 河内、1986年、P150-153・159-160./2014年、147-150・156-157.
  38. ^ 安田政彦「大同元年の大伴親王上表をめぐって」(初出:『続日本紀研究』第268号(1993年6月)・所収:「大伴親王の賜姓上表」(改題)『平安時代皇親の研究』(吉川弘文館、1998年) ISBN 978-4-642-02330-6
  39. ^ 大同元年11月条。ただし、文中には正確な時期については明記していない。
  40. ^ 西本、2022年、P145-154.
  41. ^ 春名、2009年、P98-102.
  42. ^ 春名、2009年、P95-96.
  43. ^ 春名、2009年、P82-90・102-104.
  44. ^ 春名、2009年、P90-94・104-107.
  45. ^ 桜田真理絵「橘嘉智子立后にみる平安初期皇后の位置」吉村武彦 編『律令制国家の理念と実像』八木書店、2022年 ISBN 978-4-8406-2257-8 P368-376.
  46. ^ 春名、2009年、P69-80・104-108.
  47. ^ 西本、2022年、P182-189.
  48. ^ 『日本後紀』大同元年七月甲辰条
  49. ^ 西本、2022年、161-172.
  50. ^ 春名、2009年、P205-222.
  51. ^ 春名、2009年、P207-208.
  52. ^ 西本、2022年、P201.(補記)
  53. ^ 木本好信 「私の仲麻呂像 -反逆者像の払拭と政治観-」『奈良平安時代史の諸問題』和泉書房、2021年


「薬子の変」の続きの解説一覧

平城太上天皇の変(薬子の変)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/10 07:54 UTC 版)

坂上田村麻呂」の記事における「平城太上天皇の変(薬子の変)」の解説

詳細は「薬子の変」を参照 大同4年4月1日809年5月18日)、平城天皇は健康上の理由皇位皇太弟神野親王へと譲位した皇太子には平城天皇第三皇子高岳親王立てられた。平城天皇寵愛受けていた藤原薬子と兄・藤原仲成譲位反対するものの、4月13日809年5月30日)に神野親王嵯峨天皇として即位する譲位後に健康を回復させた平城上皇は、大同4年11月、仲成に命じて平城京修理させると、12月4日(810年1月12日)には平城京へと移り住んだ嵯峨天皇大同5年810年3月蔵人所設置し6月には平城天皇治世設置され観察使制度廃止する。これに怒った平城上皇薬子と仲成が助長して二所朝廷といわれる事態になる。大同5年9月6日810年10月7日)、平城上皇により平安京廃して平城京遷都する詔勅を発せられたことで平城太上天皇の変(薬子の変)が始まる。平城京遷都詔勅ひとまず従った嵯峨天皇は、坂上田村麻呂藤原冬嗣紀田上らを平城京造宮使任命する。 しかし9月10日810年10月11日)、嵯峨天皇平城京遷都拒否決断して固関使を伊勢国近江国美濃国国府と関に派遣同時に仲成を捕らえて右兵衛府禁固し、佐渡権守左遷薬子尚侍正三位剥奪し宮中から追放という詔を発した。『公卿補任』によるとこの日に田村麻呂大納言昇進しており、子の坂上広野近江国の関を封鎖するために派遣されている。 嵯峨天皇側の動き知った平城上皇激怒して9月11日810年10月12日早朝挙兵することを決断し薬子と共に輿に乗って平城京発し東国へと向かった嵯峨天皇田村麻呂派遣美濃道より上皇迎え撃つにあたり上皇側と疑われ左衛士府禁固されていた文室綿麻呂同行願い出て嵯峨天皇は綿麻呂正四位上参議任命した上で許可している。平城京から出発した平城上皇東国出て兵を募る予定だったが、田村麻呂宇治・山崎両と淀市の津に兵を配したこの夜、右兵衛府で仲成が射殺された。 嵯峨天皇側の迅速な対応により上皇9月12日810年10月13日)に大和国添上郡越田さしかかったとき、田村麻呂指揮する兵が上皇行く手遮った進路遮られたことを知り平城上皇平城京へと戻って剃髪して出家し薬子は毒を仰いで自殺したことにより対立天皇勝利終わった。この事件時に空海鎮護国家田村麻呂勝利を祈祷している。

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