平城宮(前半)の朝堂
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平城宮は、広さおよそ125ヘクタールの広大な面積をもち、大きく分けて、朝堂院・内裏を核とする中枢部分と周辺官庁群の区域に分かれていた。その位置と範囲は、前半・後半を通じて変わらない。 1960年代の調査では、朝堂院が東西に2つ並んで確認されたことから、それを時期差として解釈する「第一次朝堂院」「第二次朝堂院」説が提起され、また、木簡や史書にみえる「中宮」「東宮」「西宮」が「内裏」とどう関わり、また、それぞれを実際の遺構にどう比定するかなどについて、活発な議論がかわされた。 調査が進むにつれて、710年(和銅3年)の平城京遷都当初から構造と機能の異なる2つの朝堂が奈良時代を通じて並存し、しかも、745年の還都に際し、前半とほぼ同じ場所に建物が再建されたことが判明した。こんにちでも「第一次朝堂院」「第一次大極院」等の名称がしばしば用いられるが、それは報告書等における名称の慣用的な使用であり、意味としては正しくないことがある。また、文献上の「中宮」「東宮」「西宮」をどのように現実の遺構変遷と整合させるかについては、依然、複数の学説が大きく対立している。 奈良時代前半(710年-740年)では、朱雀門から宮城に入って北へ約220メートルいくと、さらに門があり、その北に桁の長い東西2堂計4堂の朝堂のある一郭があり、さらにその北には朝堂区域とほぼ同面積におよぶ広大な大極殿の一郭(しばしば「大極殿院」と称される)が控える。この〈朱雀門-朝堂(4堂)-大極殿院〉の細長いエリアの東西両側には、これに沿って南北方向に直線状の水路が走っている。 また、朱雀門の東壬生門から宮城に入って北へ約220メートルいくと、同様に門があり、その北に従来型の朝堂区域すなわち東西各6堂で計12堂よりなる朝堂院の一郭があり、その北に広大な内裏の一郭がある。この〈壬生門-朝堂(12堂)-内裏〉の細長いエリア(東側エリア)の西側は先に述べた水路によって、さきほどの〈朱雀門-朝堂(4堂)-大極殿院〉のエリア(西側エリア)と区切られる。 つまり、朝堂のある区域は水路をはさんだかたちで東西に並び、西側が従来にない特異な型式、東側が従来型式の朝堂区域となっている。規模は、両区域とも南北方向は同じ長さであるが東西方向は西側エリアの朝堂区域がやや長く、東側は西側にくらべ細長い形状の長方形となる。 西側エリアの朝堂区域については、平安宮における豊楽院の先駆的な形態ととらえる見解が、かつても今も多い。詳細は不明であるが、広大な大極殿院の前面にあって、かつ、長岡宮以後は引き継がれなかったことから、饗宴や儀式等の場所またはその控えとして利用された可能性は充分に考えられる。 なお、東側エリアの12堂よりなる朝堂院において、発掘調査により判明した東一堂と東二堂の朝堂殿舎の規模は、 東一堂 … 桁行9間(約36メートル)、梁行5間(約14メートル)、四面庇、入母屋または寄棟 東二堂 … 桁行12間(約36メートル)、梁行3間(約9メートル)、四片庇、切妻 であり、第一堂が二堂に対し格上の殿舎とされていることは従来と変わらなかった。また、いずれも礎石建物で屋根は瓦葺だったことが判明している。 遺物出土状況および遺構検出状況より、柱は朱色で、壁は白い漆喰で仕上げられ、連子窓をともなう場合は緑など、色彩豊かな空間であったろうと推測されている。
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平城宮(後半)の朝堂
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奈良時代後半(745年-784年)でも、朝堂の立ち並ぶ2つの区域に限っていうと、前半とそれほど大きくは変わらない。 西側エリア〈朱雀門-朝堂(4堂)-大極殿院〉では、大極殿院前の回廊が取り払われて朝堂区域の敷地面積が拡大するが殿舎の数は4堂で変わらず、位置も不変である。しかし、大極殿は東側エリアに移って大極殿院は「西宮」というかたちで残った可能性が高い。つまり、ここでは〈朱雀門-朝堂(4堂)-西宮〉が一直線に並ぶかたちとなった。 東側エリア〈壬生門-朝堂(12堂)-内裏〉では、大極殿が西側エリアより移り、また、朝堂の南に朝集殿が東西各1堂で計2堂確認されている。つまり、ここでは〈壬生門-朝集殿-朝堂(12堂)-大極殿(-内裏)〉が一直線に並ぶかたちとなった。 発掘調査では、東側エリアの東第一堂と第二堂の規模を確認している。それぞれの殿舎の規模は、 東一堂 … 桁行9間(約26メートル)、梁行4間(約14メートル)、四面庇、入母屋または寄棟 東二堂 … 桁行15間(約33メートル)、梁行4間(約14メートル)、四面庇、入母屋または寄棟 である。両堂の位置は、前半とほぼ変わらず、同一地点での建て替えである。これをみると、難波長柄豊碕宮、藤原宮、平城宮(前半)まで、第一堂の梁行総長が二堂以下にくらべ長かったのに対し、ここで初めて同じ長さになっている。また、庇のあり方や屋根構造の面などでも二堂との違いがなくなっている。したがって、少なくとも外観のうえでは、第一堂を特別視することはなくなったことがわかる。この傾向は、長岡宮、平安宮でも引き継がれる。
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