平城京・恭仁京の大極殿
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恭仁京(くにきょう)遷都までの大極殿を第一次大極殿、奈良に都が戻ってからの大極殿を第二次大極殿という。第一次大極殿は平城宮の正門である朱雀門の真北に位置し、第二次大極殿は平城宮東寄りの壬生門北に位置している。第二次大極殿跡は近世まで「大黒(ダイコク)の芝」と呼ばれた基壇が残っていた。この命名は、平城京遷都当初は朱雀門北の地域に大極殿が設けられたものの、恭仁京大極殿の規模と一致するところから745年(天平15年)に壬生門北に移動したものと考えられたためであったが、第二次大極殿跡の下層から掘立柱建物の遺構が検出され、それが大極殿・朝堂院と同じ建物配置をとることから、結局、奈良時代の前半には朱雀門北の広大な前庭をもち朝堂2堂をともなう第一次大極殿(中央の大極殿)と壬生門北の朝堂12堂よりなる太政官院のさらに北にある内裏南面の大極殿(東側の大極殿)の2棟あることがわかった。 中央の第一次大極殿の周囲は築地回廊で囲まれ、南の朝堂区域とつながる「閤門」があった。この区域は「大極殿院」と呼ばれる。広い前庭をともない、前庭から1段高い位置に大極殿が建設されているが、これは平安宮の龍尾壇(竜尾壇 りゅうびだん)の原型と考えられる。正月の元日には大極殿前庭に七本の宝幢(ほうどう)が立てられ諸臣の朝賀が行われた。他に、即位式や外国使節謁見などの朝儀の空間として使用されていたと考えられる。元正天皇や聖武天皇の即位も大極殿院でおこなわれている。 それに対し、第二次大極殿下層の東側大極殿は、日常の朝政にあたる空間だったと考えられ、このような機能分化は、唐長安城の太極宮太極殿と大明宮含元殿の影響を受けたものと指摘される。 奈良時代の後半は、中央の第一次大極殿院の跡地は朝儀の場としては使われなくなり、儀式の機能は東側、壬生門北の第二次大極殿に集約されたものと考えられる。したがって、壬生門北は、北より<内裏、大極殿、12堂の朝堂よりなる太政官院(朝堂院)、2堂の朝集殿、壬生門>が一直線に建ち並ぶ形態となり、壬生門を入ってすぐ北の両側には東に式部省、西に兵部省の建物があるという配置となった。 第一次大極殿地区に関しては、仁藤敦史が木簡や史料にみられる「西宮」を第一次大極殿地区に想定している。すなわち、饗宴などに用いられてきた第一次大極殿地区が居住区画に改造されたとみる。その改造は、発掘調査の成果からは、平城京への還都(745年)直後ではなく、早くとも天平勝宝年間(749年-757年)以降と考えられており、天平神護(765年-767年)のころには積極的な改造がなされた形跡がない。仁藤は、このことを天平勝宝元年の聖武天皇の孝謙天皇への譲位、すなわち「聖武上皇」の成立と深い連関があるのではないかと推測している。 なお、奈良建都1300年に当たる2010年に合わせ、平城宮跡に第一次大極殿が実物大で復元された。(→平城遷都1300年記念事業) 復元された平城宮第一次大極殿の屋根には、中国古代建築の類例に倣い、大棟中央飾りが設置されている。ただし、これまで平城宮跡からは大棟中央飾金具の出土例がない。そのため、奈良時代前後の事例および資料の収集調査を通じ、この金具の意匠設計を進めたという。宝珠形の大棟中央飾りの類例として、初唐の敦煌莫高窟第338窟壁画の邸宅(宮殿?)、隋の訓西西安出土仏殿形式石棺などがある。 平城宮 第1次大極殿(復元)の宝珠形大棟中央飾り 平城宮 第2次大極殿跡
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