平城京への移転とは? わかりやすく解説

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平城京への移転

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/15 02:38 UTC 版)

薬師寺」の記事における「平城京への移転」の解説

その後和銅3年710年)の平城京への遷都に際して薬師寺飛鳥から平城京六条大路面した右京六条二坊(現在地)に移転した移転時期長和4年1015年成立の『薬師寺縁起』が伝えところによれば養老2年718年)のことであった。ただし、平城薬師寺境内からは霊亀2年716年)の記載のある木簡出土していることから、造営養老2年よりも若干早くから始まっていたとみられる。『扶桑略記天平2年730年3月29日条に、「始薬師寺東塔立」とあり、東塔三重塔)が完成したのがその年のことで、その頃まで造営続いていたもの思われる。 なお、平城京への移転後も、飛鳥薬師寺本薬師寺)はしばらく存続していた。史料発掘調査結果からは平安時代中期10世紀ころまでは存続してたようだが、後に廃寺となった本薬師寺跡には金堂東塔礎石西塔心礎残っている。本薬師寺伽藍配置は「薬師寺式伽藍配置」と称されるもので、中央金堂その手前に中門背後講堂配し金堂の手東西に塔を置く。そして、中門左右から出た回廊講堂左右に達し金堂東西両塔は回廊囲まれている。この伽藍配置平城薬師寺においても踏襲されている。本薬師寺平城薬師寺双方発掘調査により、両伽藍建物規模位置関係などはほぼ等しく本薬師寺伽藍平城薬師寺再現しようしたものであることがわかる。ただし、平城薬師寺では中門規模拡大され回廊も幅が広げられている。 平城京薬師寺天禄4年973年)の火災によって金堂東塔西塔残し講堂僧坊南大門など多く建物焼失した発掘調査によって、西僧坊跡地からは僧たちが使用していたとみられる奈良時代や唐時代陶磁器多数出土しており、天禄4年火災の際にから落ちて土中埋もれたものとみられる戦国時代享禄元年1528年9月7日には、興福寺衆徒筒井順興による兵火東塔東院堂を残し全山焼失した。現在、奈良時代建物東塔を残すのみである。 金堂は、慶長5年1600年)に郡山城主の増田長盛によって再建され大講堂嘉永5年1852年)に再建される以前慶長5年1600年再建説や延宝4年1676年再建説などもあった)が、往時大伽藍とは比ぶべくもなかった。

※この「平城京への移転」の解説は、「薬師寺」の解説の一部です。
「平城京への移転」を含む「薬師寺」の記事については、「薬師寺」の概要を参照ください。

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