平城天皇の即位とは? わかりやすく解説

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平城天皇の即位

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/10 07:54 UTC 版)

坂上田村麻呂」の記事における「平城天皇の即位」の解説

延暦25年3月17日806年4月9日)、桓武天皇崩御すると、同日中に皇太子安殿親王平城天皇)の践祚即位先立って執り行われた。田村麻呂春宮大夫藤原葛野麻呂と共に身を伏したまま哀慟して自ら立つこともままならない安殿親王抱きかかえて殿を下り、ただちに皇太子玉璽御璽)と宝剣天叢雲剣)を奉っている。4月1日806年4月22日)に中納言藤原雄友に従って桓武天皇への誄辞奉ったこの間坂上田村麻呂4月18日806年5月9日)に中納言4月21日806年5月12日)に中衛大将立て続け要職兼ねることとなった5月18日806年6月8日)に即位の儀が執り行われると、元号延暦から大同改元された。平城天皇治世中央政府機構整理官吏給与など縮小政策行っていく。 10月12日806年11月25日付け発布され太政官符申請者として「中納言征夷大将軍従三位兼行中衛大将陸奥出羽按察使陸奥守勲二等」の肩書きで名前を連ねている。これは陸奥国出羽国郡司軍毅など、定員以外にも有能勇敢な人物であれば任命することで辺境防備体制固めたいというものであった。この施策擬任郡司軍毅呼ばれ一人でも多く現地有力者官職与えることで名誉欲を満足させ、同時に辺境安定に役立たせようとの狙いであった。これが坂上田村麻呂にとって最後東北政策考えられている。 大同2年4月12日807年5月22日)、中衛府右近衛府へと改称されたことに伴って中衛大将から右近衛大将となる。8月14日807年9月19日)には侍従兼任するが、中納言従三位田村麻呂侍従任じられたことは、平城天皇からの信任厚かったことの証左である。 その直後となる10月伊予親王の変起こっている。この政変では11月12日807年12月14日)に藤原吉子伊予親王母子そろって毒を飲んで心中した平城天皇侍従であった田村麻呂どのような対処をしたかはわかっていない。 11月16日807年12月18日)に兵部卿兼任し大同4年3月30日809年5月17日)には父・苅田麻呂超える正三位となった

※この「平城天皇の即位」の解説は、「坂上田村麻呂」の解説の一部です。
「平城天皇の即位」を含む「坂上田村麻呂」の記事については、「坂上田村麻呂」の概要を参照ください。

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