平城天皇の即位
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延暦25年3月17日(806年4月9日)、桓武天皇が崩御すると、同日中に皇太子・安殿親王(平城天皇)の践祚が即位に先立って執り行われた。田村麻呂は春宮大夫・藤原葛野麻呂と共に身を伏したまま哀慟して自ら立つこともままならない安殿親王を抱きかかえて殿を下り、ただちに皇太子に玉璽(御璽)と宝剣(天叢雲剣)を奉っている。4月1日(806年4月22日)に中納言・藤原雄友に従って桓武天皇への誄辞を奉った。 この間、坂上田村麻呂は4月18日(806年5月9日)に中納言、4月21日(806年5月12日)に中衛大将と立て続けて要職を兼ねることとなった。 5月18日(806年6月8日)に即位の儀が執り行われると、元号が延暦から大同に改元された。平城天皇の治世は中央政府の機構整理や官吏の給与など縮小政策を行っていく。 10月12日(806年11月25日)付けで発布された太政官符に申請者として「中納言征夷大将軍従三位兼行中衛大将陸奥出羽按察使陸奥守勲二等」の肩書きで名前を連ねている。これは陸奥国・出羽国の郡司・軍毅など、定員以外にも有能・勇敢な人物であれば任命することで辺境の防備体制を固めたいというものであった。この施策は擬任郡司・軍毅と呼ばれ、一人でも多くの現地の有力者に官職を与えることで名誉欲を満足させ、同時に辺境の安定に役立たせようとの狙いであった。これが坂上田村麻呂にとって最後の東北政策と考えられている。 大同2年4月12日(807年5月22日)、中衛府が右近衛府へと改称されたことに伴って中衛大将から右近衛大将となる。8月14日(807年9月19日)には侍従も兼任するが、中納言従三位の田村麻呂が侍従に任じられたことは、平城天皇からの信任が厚かったことの証左である。 その直後となる10月に伊予親王の変が起こっている。この政変では11月12日(807年12月14日)に藤原吉子・伊予親王母子がそろって毒を飲んで心中した。平城天皇の侍従であった田村麻呂がどのような対処をしたかはわかっていない。 11月16日(807年12月18日)に兵部卿も兼任し、大同4年3月30日(809年5月17日)には父・苅田麻呂を超える正三位となった。
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