嵯峨浩の救出とは? わかりやすく解説

嵯峨浩の救出

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/24 18:10 UTC 版)

田中徹雄」の記事における「嵯峨浩の救出」の解説

昭和21年1946年12月上海連絡班に所属していた田中は「濱口幹子」と名乗る女性が娘を連れて上海市内の松井公館拘束されていることを「岡田某」から聞く調べてみると実は満州国皇弟溥傑夫人嵯峨浩であることがわかった。彼女を放っておけば川島芳子のように戦犯として処刑される田中判断し自分独り救出することを決心する12月27日単身自動車駆って松井公館行き警備厳重な表と違って手薄である裏手のすすきばやし中に停めた。そして建物忍び込んで親子導いて裏口から脱出させ、自動車乗せる。旧松井公館を出る際に、気づいた警備中国兵発砲するが、自動車フルスピード運転してそこを逃れ、見事救出成功する。 翌28日上海発の最後引揚船乗って1月4日には佐世保にたどり着いて自身召集解除されたが、浩親子横浜市日吉嵯峨家まで送り届けた

※この「嵯峨浩の救出」の解説は、「田中徹雄」の解説の一部です。
「嵯峨浩の救出」を含む「田中徹雄」の記事については、「田中徹雄」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「嵯峨浩の救出」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「嵯峨浩の救出」の関連用語

1
12% |||||

嵯峨浩の救出のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



嵯峨浩の救出のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの田中徹雄 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS