藤原友人
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藤原 友人(ふじわら の ともひと、神護景雲元年(767年) - 弘仁13年8月16日(822年9月4日)は、平安時代初期の貴族。藤原南家、右大臣・藤原是公の子。官位は従四位下・相模守。
経歴
従五位下に叙爵の後、延暦24年(805年)播磨権介に任ぜられ、翌延暦25年(806年)播磨介に昇格する。しかし、大同2年(807年)に発生した伊予親王の変において、兄の大納言・藤原雄友とともに連座して、下野守に左遷され失脚する。
嵯峨朝に入ると赦されて入京し[1]、弘仁元年(810年)兵部少輔に任ぜられて官界に復帰するが、翌弘仁2年(811年)讃岐守に転じる。のち、弘仁7年(816年)従五位上、弘仁10年(819年)正五位下と昇叙され、嵯峨朝末に従四位下に至る。弘仁13年(822年)8月16日病気により卒去。享年56。最終官位は相模守従四位下。
人物
小人物で、礼の法度を守らなかった。仙道を好んだが、空中を飛ぶことはできなかったという[1]。
官歴
『日本後紀』による。
- 時期不詳:従五位下
- 延暦24年(805年) 12月15日:播磨権介
- 延暦25年(806年) 正月28日:播磨介
- 大同2年(807年) 9月:下野守[1]
- 弘仁元年(810年) 9月16日:兵部少輔
- 弘仁2年(811年) 5月14日:讃岐守
- 弘仁7年(816年) 正月7日:従五位上
- 弘仁10年(819年) 正月7日:正五位下
- 時期不詳:従四位下。相模守
- 弘仁13年(822年) 8月16日:卒去(相模守従四位下)
系譜
『尊卑分脈』による。
- 父:藤原是公
- 母:不詳
- 生母不詳の子女
- 男子:藤原息道
- 男子:藤原良道
脚注
参考文献
- 藤原友人のページへのリンク