太上天皇として
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在位9年の後、明和7年11月(西暦1771年1月)、甥である後桃園天皇に譲位して太上天皇となった。 しかし安永8年(1779年)、皇子を残さぬまま後桃園天皇は崩御した。後桜町上皇は廷臣の長老で前関白の近衛内前と相談し、伏見宮家より養子を迎えようとしたが、結局現関白九条尚実の推す典仁親王六男、9歳の祐宮(師仁、兼仁、光格天皇)に決まった。 皇統の傍流への移行以後も、後桜町上皇は幼主をよく輔導したといわれる。上皇はたびたび内裏に「御幸」し、光格天皇と面会している。ことに寛政元年(1789年)の尊号一件に際し、「御代長久が第一の孝行」と言って光格天皇を諭したことは有名である。このように朝廷の権威向上に努め、後の尊皇思想、明治維新への端緒を作った光格天皇の良き補佐を務めたことから、しばしば「国母」といわれる。 天明2年(1782年)、天明の京都大火に際しては青蓮院に移り、ここを粟田御所と号した。生母青綺門院の仮御所となった知恩院との間に、幕府が廊下を設けて通行の便を図っている。 天明7年(1787年)6月、御所千度参りに集まった民衆に対し、後桜町上皇から3万個のリンゴ(日本で古くから栽培されている、和りんご)が配られた。 晩年は母方の実家として自分を支えた二条家の当主である左大臣二条治孝を関白に就けることを望んだ。しかし、治孝は関白としては「非器」とみなされて、朝廷・幕府両方から現任の鷹司政煕の慰留が行われ、最終的に後桜町上皇の崩御によって阻止されることになった。 文化10年(1813年)、74歳で崩御。後桜町院の追号が贈られた。ちなみに、その後に崩御した光格天皇以降は「院」でなく「天皇」の号を贈られたため、最後の女帝であるとともに崩御後に「院」と称された最後の天皇でもある。
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