太上天皇としてとは? わかりやすく解説

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太上天皇として

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/08 17:35 UTC 版)

後桜町天皇」の記事における「太上天皇として」の解説

在位9年の後、明和7年11月西暦1771年1月)、甥である後桃園天皇譲位し太上天皇となった。 しかし安永8年1779年)、皇子を残さぬまま後桃園天皇崩御した。後桜町上皇廷臣長老で前関白近衛内前相談し伏見宮家より養子迎えようとしたが、結局関白九条尚実推す典仁親王六男、9歳祐宮師仁兼仁光格天皇)に決まった皇統傍流への移行以後も、後桜町上皇幼主をよく輔導したといわれる上皇はたびたび内裏に「御幸」し、光格天皇面会している。ことに寛政元年1789年)の尊号一件際し、「御代長久第一孝行と言って光格天皇諭したことは有名である。このように朝廷権威向上に努め、後の尊皇思想明治維新への端緒作った光格天皇良き補佐務めたことから、しばしば「国母といわれる天明2年1782年)、天明の京都大火に際して青蓮院移り、ここを粟田御所号した生母青綺門院仮御所となった知恩院との間に、幕府廊下設けて通行の便を図っている。 天明7年1787年6月御所千度参り集まった民衆対し後桜町上皇から3個のリンゴ日本古くから栽培されている、和りんご)が配られた。 晩年母方実家として自分支えた二条家当主である左大臣二条治孝関白就けることを望んだ。しかし、治孝は関白としては「非器」とみなされて、朝廷幕府両方から現任鷹司政煕慰留が行われ、最終的に後桜町上皇崩御によって阻止されることになった文化10年1813年)、74歳崩御後桜町院追号贈られた。ちなみにその後崩御し光格天皇以降は「院」でなく「天皇」の号を贈られたため、最後女帝であるとともに崩御後に「院」と称され最後天皇でもある。

※この「太上天皇として」の解説は、「後桜町天皇」の解説の一部です。
「太上天皇として」を含む「後桜町天皇」の記事については、「後桜町天皇」の概要を参照ください。

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