諡号・追号・異名とは? わかりやすく解説

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諡号・追号・異名

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/27 13:39 UTC 版)

明正天皇」の記事における「諡号・追号・異名」の解説

明正の名は、女帝元明天皇とその娘の元正天皇から取ったとされる

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諡号・追号・異名

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/16 13:33 UTC 版)

光格天皇」の記事における「諡号・追号・異名」の解説

天保12年1月27日1841年2月18日)、第58光孝天皇以来1000年近く絶えていた漢風諡号選定(但し、崇徳安徳順徳の各天皇を除く)及び第62村上天皇以来900年近く絶えていた天皇号(但し、安徳後醍醐両天皇を除く)を復活させ、「光格天皇」と諡された。それまでは「追号+院」という形であった以後仁孝天皇孝明天皇2代にも諡号用いられた。 天皇崩御の後、公家の間から「故典・旧儀を興複せられ、公事再興少なからず、……質素尊ばれ修飾好まれず、御仁愛く聖慮専らにし、ついに衆庶におよぶ」という功績称え謐号をおくる意見出た。そこで朝廷から幕府強く要望出され特例を以て許可された。さらに朝廷は「御斟酌ながら、帝位の御ことゆえ以後天皇称したまつられるべき」と天皇の名称も幕府認めさせたのである

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諡号・追号・異名

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文徳天皇」の記事における「諡号・追号・異名」の解説

御陵在所によって別名を「田邑帝」(田村帝)ともいう。

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伏見天皇」の記事における「諡号・追号・異名」の解説

退位後長く住んだ洛南離宮伏見殿にちなみ、伏見院追号また、伏見天皇崩御の場でもある持明院殿とも称された。なお、持明院殿持明院統代々仙洞御所であり、「持明院統」の呼称もそれに由来するとされているが、実際に室町院後堀河天皇皇女)の遺産として伏見上皇継承して以来御所である。

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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/06 12:32 UTC 版)

仲恭天皇」の記事における「諡号・追号・異名」の解説

即位後わずか78日で廃され即位式大嘗祭行われなかったため諡号・追号がされず、九条廃帝くじょうはいてい)、承久の廃帝じょうきゅうはいてい)、半帝後廃帝呼ばれていた。 明治3年1870年5月明治政府太政官)は、大友皇子淡路廃帝九条廃帝天皇号追諡を行うことにして、神祇官および大学追諡撰定命じた九条廃帝4歳登極在位78日で廃位以後17歳亡くなるまで生家九条邸で隠棲していたため、諡号撰定根拠にすべき事績全くなかった神祇官でも苦心結果天皇第三であったことから「仲」の字を、また諡は本来敬を表すものであるということから「恭」の字を選び両者で「仲恭」の諡号撰定するに至った政府はこれに対して弾正台などの意見聞き7月20日に「仲恭」と決定し同年7月23日神祇官祭典執行祝詞をして奉諡を行った翌日、『太政官日誌』(明治3年28号)で、弘文天皇大友皇子)、淳仁天皇淡路廃帝とともに仲恭天皇諡号布告された。

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嵯峨天皇」の記事における「諡号・追号・異名」の解説

譲位後洛西嵯峨院に住み、また嵯峨山北葬られたことから嵯峨天皇追号された。

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亀山天皇」の記事における「諡号・追号・異名」の解説

追号亀山院は、在所の名亀山殿にちなむ。父後嵯峨院嵯峨野建造した離宮亀山殿を伝領し退位後仙洞としてそこで崩御している。 ほかに、同じく後嵯峨院洛東東山禅林寺永観堂)の南部文永元年1264年)に造営した離宮禅林寺殿由来する禅林寺殿異称もある。なお、この離宮は伝領した後に亀山院自身寺院化し正応4年1291年)に京都五山の上南禅寺となったまた、居所から万里小路殿、年号から文応皇帝異称もある。

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後深草天皇」の記事における「諡号・追号・異名」の解説

御陵深草北陵)に因んで後深草院」と追号。第54仁明天皇別称深草帝だったため、後の字が付くが、普通の天皇加後号のように音読みすると「後深草(ごふかうさ)=御不孝者」に通じるのを憚り、この天皇限って、「後」の字を訓読みして「のちの―ふかうさ」院と称したという(『和長卿記』)。しかし、別の資料によれば宮中では依然として「ごふかうさ」と読んでいたとされ、不審でもある。明治以後院号廃止され後深草天皇称されるうになるそれに伴い読み正式に「ごふかくさ」に定着。ほかに居所とした常盤井殿や冷泉富小路殿にちなん異名もある。

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土御門天皇」の記事における「諡号・追号・異名」の解説

土佐阿波流されたことから、土佐院阿波院別称がある。

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後宇多天皇」の記事における「諡号・追号・異名」の解説

遺詔によって、「宇多天皇」の追号に「後」の字を冠した後宇多院追号贈られた(『花園天皇宸記元亨4年6月25日条…「奉号後宇多院、是遺詔歟」)。宇多天皇また、真言宗傾倒し阿闍梨師僧)の資格得た天皇だった。 なお、日本史研究者河内祥輔によれば、子の後醍醐天皇自身追号を「後醍醐」としたのは、後宇多後継者であることを自認していたからではないかという。宇多天皇が子の醍醐天皇のために書き残した遺訓の『寛平御遺誡』は、この当時広く知られており、『寛平御遺誡』の名声通じて自身後宇多後継者であることを示したかったからではないか、という。 嵯峨天皇離宮であった大覚寺再興しそこで院政を執ったため、大覚寺殿と称され、のちには亀山後宇多皇統を指す語にもなった。ほかに御所として使用され万里小路殿や常磐井殿に基づく異称もある。また、落飾得度したため僧侶として法諱金剛性がある。

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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/04 14:22 UTC 版)

白河天皇」の記事における「諡号・追号・異名」の解説

洛東白河の地に「国王氏寺」と称される壮麗な伽藍法勝寺を建て、さらにその西側白河北殿造営し院御所とした。崩御際し、遺諡によって自ら白河院追号決めたという。また六条帝の異名もある。大正以後院号停廃され白河天皇とされる退位してからは白河上皇とされる。なお、「六条院」の院号来孫(孫のひ孫)である順仁親王追諡された。

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崇光天皇」の記事における「諡号・追号・異名」の解説

遺詔により「崇光院」の院号定められた。

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宇多天皇」の記事における「諡号・追号・異名」の解説

通説では譲位後在所の名称より宇多天皇追号されたと言われているが、実際居宅仁和寺亭子院六条院主としていたという(宇多院は元は父の光孝天皇親王時代邸宅で、宇多天皇はここで成長したからだという説もある)。 また、寛平法皇亭子院(ていじのいん)、朱雀院太上天皇などの名称でも呼ばれた

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光孝天皇」の記事における「諡号・追号・異名」の解説

光孝天皇諡号奉られた。漢風諡号を持つ古代最後天皇であり、漢風諡号奉呈その後千年近く経った江戸末期光格天皇による復興まで待つことになる。在位中の年号をもって仁和帝(にんなのみかど)、また山陵の名をもって小松帝こまつのみかど)とも呼ばれた

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後醍醐天皇」の記事における「諡号・追号・異名」の解説

天皇諡号追号通常死後おくられるのであるが、後醍醐天皇は、生前自ら後醍醐の号を定めていた。たとえば、輪王寺銅鋺延元元年付には「当今皇帝……後醍醐院自号焉」とあり、崩御3年前延元元年/建武3年1336年時点で既に後醍醐の名が広く知られていた。これを遺諡といい、白河天皇以後しばしば見られる。なお「後醍醐」は分類としては追号になる(追号諡号一種とする場合もあるが、厳密に異なる)。 20世紀時点での通説としては、後醍醐延喜・天暦の治称され天皇親政時代とされた醍醐天皇村上天皇治世理想としており、そのため醍醐に後を付けて後醍醐にしたのだとされていた。一方21世紀入り河内祥輔は、父の後宇多天皇生前から追号を「後宇多」と定めていたことを指摘し宇多天皇が子の醍醐天皇のために書き残した遺訓の『寛平御遺誡』にあやかって、『寛平御遺誡』の名声通じて自身後宇多後継者であることを示したかったのではないか、という説を唱えている。 崩御後北朝では崇徳院安徳天皇顕徳院順徳院などのように徳の字を入れて院号奉る案もあった。平安期入ってから「徳」の字を入れた漢風諡号奉るのは、配流先などで崩御し天皇鎮魂慰霊場合限られていたが、結局生前意志尊重して南朝と同様「後醍醐」としたという(一条経通玉英記抄』「凶礼」暦応2年9月8日条)。あるいは、その院号治世中の年号元徳)からとって「元徳院」だったともいう。

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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/18 07:52 UTC 版)

桜町天皇」の記事における「諡号・追号・異名」の解説

仙洞御所の宮名である桜町殿により桜町院追号された。

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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/19 13:52 UTC 版)

後西天皇」の記事における「諡号・追号・異名」の解説

天皇は兄と(義理ではあるが)甥の間にあって在位しその子孫皇統に残すことができなかった。そのため、同じよう立場だった平安時代初期の第53淳和天皇異称西院帝」(譲位後居住した後院淳和院」の別称西院」にちなむ)に倣い、「後西院」と追号された。平安中期の第62村上天皇をもって崩後に天皇号追号することが途絶え次の冷泉天皇からは原則的に冷泉院」のごとく院号追号するのが江戸時代後期第119代光格天皇に至るまでの慣行であり、後西院もそれに則ったのである。本来は「後西院院」とせねば「後西院帝」を意味する追号ならないが、院の字の重複避けられた。 幕府政治廃絶し天皇君主とする国家体制築いた明治時代には、院号呼ばれていた歴代帝王にも権威高めるため天皇号をおくることとなった後西院は「後西院天皇」と呼ばれたが、大正14年1925年)には「~天皇」「~院天皇」と一定していなかった追号から一律に院の字を廃することとなり「後西天皇となった。しかし、後西院の元となった西院から院字を除けば単に「西」となって意味を失うため、その後も、他の院号同一視して院を除くのでなく「後西院天皇」と称するきとする歴史学者もいる。なお、『洛中洛外図』の中でも確認できるように、「西院」は中世においては「さい」と読まれ現在の西院駅京福電気鉄道)にもこの読み方残っている。このため、「後西院天皇」と表記する場合でも、ごさいてんのう」と読むことが出来る。

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霊元天皇」の記事における「諡号・追号・異名」の解説

遺詔により、孝霊天皇孝元天皇諡号を採って「霊元院」と追号される。大正以後は「霊元天皇」と表記されるまた、下御霊神社出雲路信直・直元父子霊元天皇親交があった(天皇退位後修学院山荘への行幸中、下御霊神社立ち寄っている)が、崩御の際に直元に対して自分を神として祀るように秘かに伝えた。直元は一条兼香相談して天皇を「天中柱皇神」の神号下御霊神社相殿祀られた。なお、出雲路信直山崎闇斎から垂加神道伝授され直弟子で、一条冬経(兼輝)・兼香は垂加神道理解者であったことから、霊元天皇その影響受けた可能性があると言われている。

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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/24 16:36 UTC 版)

後嵯峨天皇」の記事における「諡号・追号・異名」の解説

嵯峨亀山殿を営み同所において出家崩御している。遺諡によって後嵯峨院追号定めたという。

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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/27 03:27 UTC 版)

後水尾天皇」の記事における「諡号・追号・異名」の解説

遺諡により後水尾追号された。水尾とは清和天皇異称である。後水尾天皇は、不和であった父・後陽成天皇に、乱行があるとして実質的に廃位追い込まれ陽成天皇の「陽成」の加後号を贈り、自らは陽成天皇の父であった清和天皇異称水尾」の加後号を名乗るという意志持っていたことになる。このような父子逆転加後号は他に例がない。徳川光圀随筆西山随筆』で、兄を押しのけて即位したことが清和天皇と同様であり、この諡号を自ら選んだ理由であろう推測している。遺諡は、鎌倉時代後嵯峨天皇から南北朝室町時代後小松天皇にかけて多くあったが、その後7代わたって絶えており、後水尾天皇の遺諡は後小松天皇以来2世紀ぶりである。このことからも後水尾天皇の強い意志が伺われる。また、清和源氏称する徳川氏の上に立つという意志見て取れる。なお、「後水尾」の読み方については、現在の宮内庁は「ごみずのお」としているが、江戸時代中期故実学者伊勢貞丈は「ごみのお」が正しいとしている。

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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/29 21:40 UTC 版)

醍醐天皇」の記事における「諡号・追号・異名」の解説

勅願寺醍醐寺近く御陵があることからその名にちなんで醍醐天皇」と追号。「醍醐院」とは言わなかったようである。これは譲位したとは言え正式に太上天皇として奉上を受ける前に崩御したことによって、在位天皇同じよう土葬山陵造営という大喪儀礼実施されたことに関連するとみられる。 また在位中の代表的な年号取って延喜帝」とも称された。

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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/26 03:15 UTC 版)

後陽成天皇」の記事における「諡号・追号・異名」の解説

詳細は「後水尾天皇」項を参照

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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/07 15:16 UTC 版)

冷泉天皇」の記事における「諡号・追号・異名」の解説

追号は、後院上皇御所となった冷泉院現在の二条城東北嵯峨天皇造営した離宮冷然院」の後身)に由来する。 「院号」については、これ以前にも宇多天皇陽成天皇には特別に贈られていたが、その他の天皇基本的には「天皇号であった。しかし、冷泉天皇以降安徳天皇後醍醐天皇にのみ「天皇号」が贈られ江戸時代後期後桃園天皇に至るまでは「天皇号ではなく院号」を追号する慣例となっていった。 なお、冷泉天皇冷泉院にちなんで「冷泉院上皇」とされたため院号適用すると「冷泉院院」となるが、院の字の重複避けられた。天皇号復活後も「冷泉院天皇」とは改められず「冷泉天皇となっている。「後冷泉天皇」も同じである。「後西院天皇」も「後西天皇」とされた。

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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/09 05:57 UTC 版)

花山天皇」の記事における「諡号・追号・異名」の解説

退位後御在所にちなんで「花山院」と呼ばれたすべての天皇皇居宮中三殿一つ皇霊殿祀られている。

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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/13 17:35 UTC 版)

称光天皇」の記事における「諡号・追号・異名」の解説

追号「称光院」は、天武系の第48称徳天皇天智系の第49代光仁天皇一字ずつを取ったのである

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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/13 17:05 UTC 版)

後柏原天皇」の記事における「諡号・追号・異名」の解説

後柏原」は、桓武天皇別称柏原帝にちなむ。

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後奈良天皇」の記事における「諡号・追号・異名」の解説

後奈良」は平城天皇別称奈良帝にちなむ。父の後柏原天皇桓武天皇別称にちなんでおり、桓武 - 平城対応した追号になっている

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平城天皇」の記事における「諡号・追号・異名」の解説

追号平城天皇は、深い愛着持った平城京因むのである奈良帝(ならのみかど)とも呼ぶ。和風諡号日本根子天推国高彦尊(やまとねこあめおしくにたかひこのみこと)。

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諡号・追号・異名

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/09 23:39 UTC 版)

花園天皇」の記事における「諡号・追号・異名」の解説

仙洞御所である洛西花園萩原殿にちなみ、生前は「萩原法皇」と呼ばれた追号である花園院遺詔よる。

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