諡号・追号・異名
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明正の名は、女帝の元明天皇とその娘の元正天皇から取ったとされる。
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諡号・追号・異名
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天保12年1月27日(1841年2月18日)、第58代光孝天皇以来1000年近く絶えていた漢風諡号選定(但し、崇徳・安徳・順徳の各天皇を除く)及び第62代村上天皇以来900年近く絶えていた天皇号(但し、安徳・後醍醐両天皇を除く)を復活させ、「光格天皇」と諡された。それまでは「追号+院」という形であった。以後、仁孝天皇・孝明天皇の2代にも諡号が用いられた。 天皇崩御の後、公家の間から「故典・旧儀を興複せられ、公事の再興少なからず、……質素を尊ばれて修飾を好まれず、御仁愛くの聖慮を専らにし、ついに衆庶におよぶ」という功績を称え謐号をおくる意見が出た。そこで朝廷から幕府へ強く要望が出され、特例を以て許可された。さらに朝廷は「御斟酌ながら、帝位の御ことゆえ、以後は天皇と称したてまつられるべき」と天皇の名称も幕府に認めさせたのである。
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諡号・追号・異名
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諡号・追号・異名
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退位後長く住んだ洛南の離宮伏見殿にちなみ、伏見院と追号。また、伏見天皇崩御の場でもある持明院殿とも称された。なお、持明院殿は持明院統代々の仙洞御所であり、「持明院統」の呼称もそれに由来するとされているが、実際には室町院(後堀河天皇の皇女)の遺産として伏見上皇が継承して以来の御所である。
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諡号・追号・異名
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即位後わずか78日で廃され、即位式も大嘗祭も行われなかったため諡号・追号がされず、九条廃帝(くじょうはいてい)、承久の廃帝(じょうきゅうのはいてい)、半帝、後廃帝と呼ばれていた。 明治3年(1870年)5月、明治政府(太政官)は、大友皇子、淡路廃帝、九条廃帝に天皇号の追諡を行うことにして、神祇官および大学に追諡の撰定を命じた。九条廃帝は4歳で登極、在位78日で廃位、以後17歳で亡くなるまで生家の九条邸で隠棲していたため、諡号撰定の根拠にすべき事績は全くなかった。神祇官でも苦心の結果、天皇が第三子であったことから「仲」の字を、また諡は本来敬を表すものであるということから「恭」の字を選び、両者で「仲恭」の諡号を撰定するに至った。政府はこれに対して弾正台などの意見も聞き、7月20日に「仲恭」と決定し、同年7月23日に神祇官で祭典執行、祝詞をして奉諡を行った。翌日、『太政官日誌』(明治3年第28号)で、弘文天皇(大友皇子)、淳仁天皇(淡路廃帝)とともに仲恭天皇の諡号が布告された。
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諡号・追号・異名
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譲位後、洛西の嵯峨院に住み、また嵯峨の山北に葬られたことから嵯峨天皇と追号された。
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諡号・追号・異名
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追号の亀山院は、在所の名亀山殿にちなむ。父後嵯峨院が嵯峨野に建造した離宮亀山殿を伝領し、退位後は仙洞としてそこで崩御している。 ほかに、同じく父後嵯峨院が洛東東山禅林寺(永観堂)の南部に文永元年(1264年)に造営した離宮禅林寺殿に由来する禅林寺殿の異称もある。なお、この離宮は伝領した後に亀山院自身が寺院化し、正応4年(1291年)に京都五山の上位南禅寺となった。 また、居所から万里小路殿、年号から文応皇帝の異称もある。
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諡号・追号・異名
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御陵(深草北陵)に因んで「後深草院」と追号。第54代仁明天皇の別称が深草帝だったため、後の字が付くが、普通の天皇の加後号のように音読みすると「後深草(ごふかうさ)=御不孝者」に通じるのを憚り、この天皇に限って、「後」の字を訓読みして「のちの―ふかうさ」院と称したという(『和長卿記』)。しかし、別の資料によれば宮中では依然として「ごふかうさ」と読んでいたとされ、不審でもある。明治以後、院号は廃止され、後深草天皇と称されるようになる。それに伴い、読みも正式に「ごふかくさ」に定着。ほかに居所とした常盤井殿や冷泉富小路殿にちなんだ異名もある。
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諡号・追号・異名
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諡号・追号・異名
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遺詔によって、「宇多天皇」の追号に「後」の字を冠した後宇多院の追号が贈られた(『花園天皇宸記』元亨4年6月25日条…「奉号後宇多院、是遺詔歟」)。宇多天皇もまた、真言宗に傾倒し、阿闍梨(師僧)の資格を得た天皇だった。 なお、日本史研究者の河内祥輔によれば、子の後醍醐天皇が自身の追号を「後醍醐」としたのは、後宇多の後継者であることを自認していたからではないかという。宇多天皇が子の醍醐天皇のために書き残した遺訓の『寛平御遺誡』は、この当時広く知られており、『寛平御遺誡』の名声を通じて自身が後宇多の後継者であることを示したかったからではないか、という。 嵯峨天皇の離宮であった大覚寺を再興しそこで院政を執ったため、大覚寺殿と称され、のちには亀山・後宇多の皇統を指す語にもなった。ほかに御所として使用された万里小路殿や常磐井殿に基づく異称もある。また、落飾(得度)したため、僧侶としての法諱・金剛性がある。
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諡号・追号・異名
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/04 14:22 UTC 版)
洛東白河の地に「国王の氏寺」と称される壮麗な伽藍・法勝寺を建て、さらにその西側に白河北殿を造営し、院御所とした。崩御に際し、遺諡によって自ら白河院の追号を決めたという。また六条帝の異名もある。大正以後、院号は停廃され白河天皇とされる。退位してからは白河上皇とされる。なお、「六条院」の院号は来孫(孫のひ孫)である順仁親王に追諡された。
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諡号・追号・異名
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/14 15:05 UTC 版)
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諡号・追号・異名
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/15 15:08 UTC 版)
通説では譲位後の在所の名称より宇多天皇と追号されたと言われているが、実際の居宅は仁和寺・亭子院・六条院を主としていたという(宇多院は元は父の光孝天皇の親王時代の邸宅で、宇多天皇はここで成長したからだという説もある)。 また、寛平法皇、亭子院(ていじのいん)、朱雀院太上天皇などの名称でも呼ばれた。
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諡号・追号・異名
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/15 15:06 UTC 版)
光孝天皇の諡号を奉られた。漢風諡号を持つ古代最後の天皇であり、漢風諡号の奉呈はその後、千年近く経った江戸末期の光格天皇による復興まで待つことになる。在位中の年号をもって仁和帝(にんなのみかど)、また山陵の名をもって小松帝(こまつのみかど)とも呼ばれた。
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諡号・追号・異名
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/17 04:25 UTC 版)
天皇の諡号や追号は通常死後におくられるものであるが、後醍醐天皇は、生前自ら後醍醐の号を定めていた。たとえば、輪王寺銅鋺延元元年付には「当今皇帝……後醍醐院自号焉」とあり、崩御3年前の延元元年/建武3年(1336年)時点で既に後醍醐の名が広く知られていた。これを遺諡といい、白河天皇以後しばしば見られる。なお「後醍醐」は分類としては追号になる(追号も諡号の一種とする場合もあるが、厳密には異なる)。 20世紀時点での通説としては、後醍醐は延喜・天暦の治と称され天皇親政の時代とされた醍醐天皇・村上天皇の治世を理想としており、そのため醍醐に後を付けて後醍醐にしたのだとされていた。一方、21世紀に入り、河内祥輔は、父の後宇多天皇も生前から追号を「後宇多」と定めていたことを指摘し、宇多天皇が子の醍醐天皇のために書き残した遺訓の『寛平御遺誡』にあやかって、『寛平御遺誡』の名声を通じて自身が後宇多の後継者であることを示したかったのではないか、という説を唱えている。 崩御後、北朝では崇徳院・安徳天皇・顕徳院・順徳院などのように徳の字を入れて院号を奉る案もあった。平安期に入ってから「徳」の字を入れた漢風諡号を奉るのは、配流先などで崩御した天皇の鎮魂慰霊の場合に限られていたが、結局生前の意志を尊重して南朝と同様「後醍醐」としたという(一条経通『玉英記抄』「凶礼」暦応2年9月8日条)。あるいは、その院号は治世中の年号(元徳)からとって「元徳院」だったともいう。
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諡号・追号・異名
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/18 07:52 UTC 版)
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諡号・追号・異名
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/19 13:52 UTC 版)
天皇は兄と(義理ではあるが)甥の間にあって在位し、その子孫を皇統に残すことができなかった。そのため、同じような立場だった平安時代初期の第53代淳和天皇の異称「西院帝」(譲位後に居住した後院「淳和院」の別称「西院」にちなむ)に倣い、「後西院」と追号された。平安中期の第62代村上天皇をもって崩後に天皇号を追号することが途絶え、次の冷泉天皇からは原則的に「冷泉院」のごとく院号を追号するのが江戸時代後期の第119代光格天皇に至るまでの慣行であり、後西院もそれに則ったものである。本来は「後西院院」とせねば「後西院帝」を意味する追号にならないが、院の字の重複は避けられた。 幕府政治を廃絶し天皇を君主とする国家体制を築いた明治時代には、院号で呼ばれていた歴代帝王にも権威を高めるため天皇号をおくることとなった。後西院は「後西院天皇」と呼ばれたが、大正14年(1925年)には「~天皇」「~院天皇」と一定していなかった追号から一律に院の字を廃することとなり「後西天皇」となった。しかし、後西院の元となった西院から院字を除けば単に「西」となって意味を失うため、その後も、他の院号と同一視して院を除くのでなく「後西院天皇」と称するべきとする歴史学者もいる。なお、『洛中洛外図』の中でも確認できるように、「西院」は中世においては「さい」と読まれ、現在の西院駅(京福電気鉄道)にもこの読み方が残っている。このため、「後西院天皇」と表記する場合でも、「ごさいてんのう」と読むことが出来る。
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諡号・追号・異名
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/19 14:00 UTC 版)
遺詔により、孝霊天皇・孝元天皇の諡号を採って「霊元院」と追号される。大正以後は「霊元天皇」と表記される。 また、下御霊神社の出雲路信直・直元父子は霊元天皇と親交があった(天皇は退位後に修学院山荘への行幸中、下御霊神社に立ち寄っている)が、崩御の際に直元に対して自分を神として祀るように秘かに伝えた。直元は一条兼香と相談して、天皇を「天中柱皇神」の神号で下御霊神社の相殿に祀られた。なお、出雲路信直は山崎闇斎から垂加神道を伝授された直弟子で、一条冬経(兼輝)・兼香は垂加神道の理解者であったことから、霊元天皇もその影響を受けた可能性があると言われている。
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諡号・追号・異名
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/24 16:36 UTC 版)
嵯峨に亀山殿を営み、同所において出家、崩御している。遺諡によって後嵯峨院の追号を定めたという。
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諡号・追号・異名
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/27 03:27 UTC 版)
遺諡により後水尾と追号された。水尾とは清和天皇の異称である。後水尾天皇は、不和であった父・後陽成天皇に、乱行があるとして実質的に廃位に追い込まれた陽成天皇の「陽成」の加後号を贈り、自らは陽成天皇の父であった清和天皇の異称「水尾」の加後号を名乗るという意志を持っていたことになる。このような父子逆転の加後号は他に例がない。徳川光圀は随筆『西山随筆』で、兄を押しのけて即位したことが清和天皇と同様であり、この諡号を自ら選んだ理由であろうと推測している。遺諡は、鎌倉時代の後嵯峨天皇から南北朝・室町時代の後小松天皇にかけて多くあったが、その後7代にわたって絶えており、後水尾天皇の遺諡は後小松天皇以来約2世紀ぶりである。このことからも後水尾天皇の強い意志が伺われる。また、清和源氏を称する徳川氏の上に立つという意志も見て取れる。なお、「後水尾」の読み方については、現在の宮内庁は「ごみずのお」としているが、江戸時代中期の故実学者伊勢貞丈は「ごみのお」が正しいとしている。
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諡号・追号・異名
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/29 21:40 UTC 版)
勅願寺醍醐寺の近くに御陵があることからその名にちなんで「醍醐天皇」と追号。「醍醐院」とは言わなかったようである。これは譲位したとは言え、正式に太上天皇としての奉上を受ける前に崩御したことによって、在位の天皇と同じように土葬・山陵造営という大喪儀礼が実施されたことに関連するとみられる。 また在位中の代表的な年号を取って「延喜帝」とも称された。
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諡号・追号・異名
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/26 03:15 UTC 版)
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諡号・追号・異名
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/07 15:16 UTC 版)
追号は、後院(上皇の御所)となった冷泉院(現在の二条城の東北に嵯峨天皇が造営した離宮「冷然院」の後身)に由来する。 「院号」については、これ以前にも宇多天皇と陽成天皇には特別に贈られていたが、その他の天皇は基本的には「天皇号」であった。しかし、冷泉天皇以降は安徳天皇と後醍醐天皇にのみ「天皇号」が贈られ、江戸時代後期の後桃園天皇に至るまでは「天皇号」ではなく「院号」を追号する慣例となっていった。 なお、冷泉天皇は冷泉院にちなんで「冷泉院上皇」とされたため院号を適用すると「冷泉院院」となるが、院の字の重複は避けられた。天皇号復活後も「冷泉院天皇」とは改められず「冷泉天皇」となっている。「後冷泉天皇」も同じである。「後西院天皇」も「後西天皇」とされた。
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諡号・追号・異名
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/09 05:57 UTC 版)
退位後の御在所にちなんで「花山院」と呼ばれた。すべての天皇は皇居の宮中三殿の一つの皇霊殿に祀られている。
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諡号・追号・異名
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/13 17:35 UTC 版)
追号「称光院」は、天武系の第48代称徳天皇と天智系の第49代光仁天皇の一字ずつを取ったものである。
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諡号・追号・異名
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諡号・追号・異名
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/13 17:05 UTC 版)
「後奈良」は平城天皇の別称奈良帝にちなむ。父の後柏原天皇は桓武天皇の別称にちなんでおり、桓武 - 平城に対応した追号になっている。
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諡号・追号・異名
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/04 14:27 UTC 版)
追号の平城天皇は、深い愛着を持った平城京に因むものである。奈良帝(ならのみかど)とも呼ぶ。和風諡号は日本根子天推国高彦尊(やまとねこあめおしくにたかひこのみこと)。
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諡号・追号・異名
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/09 23:39 UTC 版)
仙洞御所である洛西花園の萩原殿にちなみ、生前は「萩原法皇」と呼ばれた。追号である花園院は遺詔による。
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