火葬と土葬
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/24 02:32 UTC 版)
奈良時代から平安時代初頭にかけての天皇陵は、土葬される例(聖武天皇)や、墳丘を作ったと思われる事例(桓武天皇)を経て、仏教思想の影響により、火葬の導入(最初に天皇で火葬を行ったのは第41代持統天皇)や火葬後に散骨して大規模な造営を行わない事例(淳和天皇)などが見られるようになる。 淳和天皇以降、在位中の天皇の崩御は国家の行事として山陵の造営が行われて土葬され、譲位した太上天皇の崩御は皇室の行事として火葬にされる慣例が確立する(淳和天皇より後に崩御した嵯峨天皇に関しては両説あり)。しかし、譲位後に次代の天皇から正式に太上天皇の称号が贈られる前に崩御した醍醐天皇の場合は在位中の天皇と同じような葬儀が行われ、次に同様の事例となった一条天皇の場合は本人が生前に希望していたにも関わらず土葬ではなく、太上天皇の葬儀の例として火葬が行われた。そして、後一条天皇が在位中に崩御すると、崩御の事実を隠して譲位の儀式を行ったあとで崩御が発表されて太上天皇として火葬されるようになった。その後、全ての天皇が火葬された訳では無いものの、山陵の造営は幕末まで行われなくなる。 2012年(平成24年)4月26日、宮内庁は、天皇や皇后が崩御した際の埋葬方法を、第125代天皇明仁およびその皇后美智子の意向により、旧来の土葬から火葬に変える方針で検討すると発表。翌2013年(平成25年)11月14日、宮内庁は第125代天皇の明仁及びその皇后美智子の埋葬法を正式に火葬にて行うと発表。合わせて二人の陵を一体的に整備する事で従来の陵より小さく作る事も発表した。(当初は天皇と皇后を一緒に埋葬する合葬も視野にいれ検討されたが、正式決定時には二人の陵を寄り添う形で作ると定められた)これにより、江戸時代初期から350年以上続いてきた天皇・皇后の葬儀と埋葬方法は第125代天皇明仁の代では大きく変わることとなった。
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