藤原基経との確執
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/17 04:58 UTC 版)
生後3か月足らずで立太子し、貞観18年(876年)11月に9歳で父・清和天皇から譲位される。父帝に続く幼年天皇の登場であり、母方の伯父・藤原基経が摂政に就いた。在位の初めは、両親および基経が協力して政務を見たが、元慶4年(880年)に清和上皇が崩じてからは基経との関係が悪化したらしく、元慶7年(883年)8月より基経は出仕を拒否するようになる。 基経は清和天皇に娘2人を入内させていたが、さらに陽成天皇の元服に際して娘の佳美子または温子を入内させようとしたのを、皇太后・高子が拒否したためではないかというのが、近年の説である。 これに対し、清和天皇の譲位の詔は基経の摂政を陽成天皇の親政開始までとしており、元慶6年(882年)の天皇元服を機に、基経が摂政を一旦辞することは不自然ではなく、関係悪化の証拠にはならないという反論もあるが、元慶4年(880年)12月の清和天皇が臨終に際して基経を太政大臣に任じたときも、基経は単なる慣例的儀礼的行為以上に5回もの上表を繰り返したうえ、摂政でありながら翌年2月まで私邸に引きこもって一切政務を執らず、政局を混乱させている。 一連の確執の本質は摂政・基経と国母である高子の兄妹間の不仲と権力争いであり、在原文子(清和の更衣)の重用を含めた高子の基経を軽視する諸行動が、基経をして外戚関係を放棄をしてまでも高子と陽成天皇を排除させるに至ったとの見方もある。ただし、在原文子を更衣としてその間に皇子女を儲けたのは清和自身である。高子が清和との間に貞明親王(陽成)・貞保親王・敦子内親王を儲けたにもかかわらず、清和は氏姓を問わずあまたの女性を入内させ多くの皇子を儲けていたことから、基経も母方の出自が高くない娘・頼子を入内させ、さらに同じく出自の低い佳珠子を入内させて外孫の誕生を望んだために、高子の反発を招いたと見ることもできる。
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