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藤原高経

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/05 18:29 UTC 版)

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藤原高経
時代 平安時代前期
生誕 不詳
死没 寛平5年5月19日893年6月7日
官位 正四位下右兵衛督
主君 清和天皇陽成天皇光孝天皇宇多天皇
氏族 藤原北家長良流
父母 父:藤原長良
母:藤原乙春(藤原総継の娘)
兄弟 国経遠経基経高経有子弘経淑子高子清経栄子
津守榎井嶋丸の娘

惟岳、伊望、斯宗、斯繁、兵衛命婦、藤原弘蔭室、女子

藤原國豊(木幡右近太夫)
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藤原 高経(ふじわら の たかつね)は、平安時代前期の貴族歌人藤原北家権中納言藤原長良の四男。官位正四位下右兵衛督

経歴

右衛門大尉蔵人を経て、貞観13年(871年従五位下叙爵し、翌貞観14年(872年相模権介に任ぜられ地方官に転じる。甥の陽成天皇が即位した翌年の元慶元年(877年)従五位上に叙せられ、陽成朝では右衛門権佐・左兵衛権佐と武官を歴任。

光孝朝でも左衛門佐と引き続き武官を務め、仁和2年12月(887年1月)には高経の別荘に光孝天皇の行幸があり、まもなく正五位下に叙せられている。仁和3年(887年宇多天皇の即位に伴い蔵人頭に任ぜられるが、寛平2年(890年)病により蔵人頭を辞任。同年従四位下・右兵衛督に叙任。寛平5年(893年)5月19日卒去。

勅撰歌人として『後撰和歌集』に和歌作品が1首採録されている[1]

官歴

注記のないものは『古今和歌集目録』による。

系譜

尊卑分脈』による。

  • 父:藤原長良
  • 母:藤原乙春(藤原総継の娘)
  • 妻:津守榎井嶋丸の娘
    • 男子:藤原惟岳
  • 生母不詳の子女
    • 男子:藤原伊望
    • 男子:藤原斯宗
    • 男子:藤原斯繁
    • 女子:兵衛 - 藤原忠房
    • 女子:藤原弘蔭
    • 女子:

脚注

  1. ^ 『勅撰作者部類』
  2. ^ a b 『尊卑分脈』

出典




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