藤原高遠とは? わかりやすく解説

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藤原高遠

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/03/22 14:54 UTC 版)

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藤原高遠
時代 平安時代中期
生誕 天暦3年(949年
死没 長和2年5月16日[1]1013年6月26日
官位 正三位大宰大弐
主君 村上天皇冷泉天皇円融天皇花山天皇一条天皇
氏族 藤原北家小野宮流
父母 父:藤原斉敏、母:藤原尹文の娘
兄弟 高遠懐平実資
養子:資高
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藤原 高遠(ふじわら の たかとお)は、平安時代中期の公卿歌人藤原北家小野宮流参議藤原斉敏の子。官位正三位大宰大弐中古三十六歌仙の一人。

経歴

村上朝応和4年(964年従五位下叙爵康保4年(967年侍従に任ぜられた後、右兵衛佐右近衛少将・左近衛少将と冷泉朝から円融朝初頭にかけて武官を歴任する。

円融朝に入ると、安和3年(970年)従五位上、天延2年(974年正五位下、天延4年(976年従四位下と俄に昇進し、天元4年(981年)には皇太子・師貞親王の春宮権亮に任ぜられる。

永観2年(984年)師貞親王の即位花山天皇)に伴い春宮権亮を務めた功労により正四位下に叙せられ、花山朝では右馬頭内蔵頭を歴任した。

一条朝では、永延元年(987年)右兵衛督に任ぜられると、永祚2年(990年)には一条天皇円融寺行幸に際して天皇のの師を務めた功労により従三位に叙せられ公卿に列す[2]。のち、兵部卿・左兵衛督と武官を歴任する。寛弘元年(1004年)大宰大弐に任ぜられ九州に下り、翌寛弘2年(1005年)には任国へ下向した労により正三位に叙せられる。寛弘6年(1009年筑前守藤原文信に訴えられ、大宰大弐の職を停められて帰洛。

三条朝の長和2年(1013年)5月16日薨去享年65。最終官位は前大宰大弐正三位。

人物

一条天皇の師であり[3]、三位に叙せられたのは笛の妙曲によるものだった[4]

康保3年(966年)閏8月の三条左大臣頼忠前栽合に出詠。『拾遺和歌集』(1首)以下の勅撰和歌集に27首が入集[5]。家集に『大弐高遠集』がある。

官歴

注記のないものは『中古歌仙三十六人伝』による。

系譜

脚注

  1. ^ 日本紀略』による。『中古歌仙三十六人伝』では6日、『尊卑分脈』では11日、『御堂関白記』では17日と諸書に異同がある。
  2. ^ 『中古歌仙三十六人伝』
  3. ^ 枕草子』230
  4. ^ 百錬抄』永祚2年1月11日条
  5. ^ 『勅撰作者部類』
  6. ^ a b 『近衛府補任』

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