大神邦利(おおがくにとし)、また(おおがのくにとし)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/15 00:08 UTC 版)
「大神氏 (豊後国)」の記事における「大神邦利(おおがくにとし)、また(おおがのくにとし)」の解説
翌長保6年(1004年)3月に宇佐八幡宮、大宮司・大神邦利ら宇佐の神職・神人ら数百名が上京して陽明門前で惟仲の苛政を愁訴する事件が発生する。宇佐神宮側は、大宰府による神宮や宮司への多くの特権侵害、特に惟仲による神宮宝殿の検封を第一に訴えた。これに対して、朝廷では度々陣定が開催され、右衛門権佐・藤原孝忠ら推問使の下向が行われる。一方で、惟仲や妻の藤原繁子が猛運動を試みたり、藤原道長の指示により惟仲の弟の生昌が九州に下向したほか、公卿の中でも権中納言・源俊賢が推問使の派遣に反対するなど、惟仲を養護する動きがあった。結局、宇佐神宮側の訴えは認められ、6月に惟仲の釐務停止が決定、12月には大宰帥を解任(後任として藤原高遠が大弐に任官)されたが、罪には問われず中納言の官職は留任となった。
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