東坊城益長とは? わかりやすく解説

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東坊城益長

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/09/09 07:34 UTC 版)

 
東坊城益長
時代 室町時代前期 - 後期
生誕 応永14年(1407年
死没 文明6年12月18日1475年1月25日
官位 従二位権大納言
主君 称光天皇後花園天皇後土御門天皇
氏族 東坊城家
父母 父:東坊城長遠
長清[1]松子[2]
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東坊城 益長(ひがしぼうじょう ますなが)は、室町時代前期から後期にかけての公卿参議東坊城長遠の長子。官位従二位権大納言

経歴

応永27年(1420年)閏1月12日に従五位上に叙せられる。2年後に父が死去するが、その後も昇進を重ねた。20代の頃に6代将軍足利義教に不興を買って2度処分[3]されているが、永享13年(1441年)の改元では彼が勧進した「嘉吉」が採用されたことが注目されるようになる。嘉吉3年(1443年)に侍読に任ぜられ、翌年には侍読の功によって従三位・左大弁に任ぜられる。

文安3年(1446年)12月12日に参議に任ぜられているが、その翌日に次期将軍である前将軍足利義勝の諱として「義成」を勧進する[4]。文安5年(1447年)には後花園天皇の生母庭田幸子女院となった際に院号を勧進する。文安6年(1448年)2月に権中納言に任ぜられ、7月には正三位に叙せられる。

享徳元年(1452年)閏8月18日に従二位に叙され、康正2年(1456年)に菅原氏では道真以来約460年ぶりに権大納言に任ぜられる。権大納言は2年後に辞任するが、その後も後花園・後土御門天皇の侍読の地位にあり、破格の出世もその功績によるところが大きい。なお、後土御門天皇の御名「成仁」は長禄元年(1457年)に益長の勧進によって定められている。ところが、文明3年(1471年)に嫡子・長清が急逝し、遺された孫の和長を養育することになる。

その3年後の文明6年(1474年)、薨去。享年68。三条西実隆は彼の死を聞いて、「譜代の鴻儒・当時の碩才」と評し、その死を惜しんでいる[5]

系譜

脚注

  1. ^ 従三位参議
  2. ^ 勾当内侍、松薗斉『中世禁裏女房の研究』(思文閣出版、2018年) P252-253・264-265.に解説あり。
  3. ^ 最初は永享元年(1429年)9月に義教の春日詣の行列を密かに見物していたことで不興を買い、翌年11月にも義教の直衣始の際に義教を見て笑ったことが怒りを買ったという(『看聞日記』など)。
  4. ^ 2年後の文安6年(1448年)に足利義成は正式に元服将軍宣下を受けた。
  5. ^ 『実隆公記』文明6年12月19日条

参考文献



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