蒲生氏を継ぐ
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蒲生氏13代当主蒲生秀綱の実弟で和田氏を継いでいた和田政秀(秀憲)の子として誕生。男児のなかった伯父の秀綱の娘を娶って蒲生氏の家督を相続して14代当主となると同時に、蒲生貞秀と名乗る。 応仁の乱においては東軍方であり、義兄弟の小倉実澄(お互いの妻が姉妹)などと行動を共にした。また、応仁・文明年間(1467年 - 1486年)に音羽城を築城し、城主となった。 近江国南部の有力国人として室町幕府と結びついており、延徳3年(1491年)における第2次六角高頼征伐(延徳の乱)の際に10代将軍・足利義材から蒲生郡散在所職名田以下の所領の安堵を受けた。しかし、明応の政変で義材が失脚すると11代将軍・足利義澄と六角高頼との間で和議が成り、しだいに高頼は南近江で勢力を盛り返した。明応4年(1495年)に高頼が近江守護に返り咲くと蒲生氏も南近江の勢力として実質的に六角氏の組下に属すことになる。 同年に貞秀は52歳で出家。長男の秀行に家督を譲り智閑(知閑)と号する。また、次男の高郷を高頼に出仕させ、三男の秀順は音羽姓を名乗り細川氏へと仕えさせた。 時期は不明であるが、貞秀は東坊城家の分家である西坊城顕長の娘の言子を後室に迎えている。彼女は文正元年(1466年)に12歳で後土御門天皇の内侍に召されて新内侍と呼ばれていたが、文明4年(1472年)に後花園院に仕えていた宗家の東坊城益長の娘である左衛門督局が内侍として内裏に復帰するとどちらを上位とするかで争いとなり、その争いに敗れた言子は宮中を去って貞秀に嫁いだ。明応9年(1500年)、後土御門天皇が崩御した際に出家して(西入道)知祐と名乗っていた顕長が近江から上洛して宗家の当主である東坊城和長(益長の孫)の配慮で特に新帝である後柏原天皇への拝謁が許された(『明応凶事記』)とあり、顕長も貞秀を頼って下向したと推定される。また、永正10年(1513年)、蒲生貞秀から妻で故大蔵卿入道顕長の娘である菅内侍(東西坊城家は菅原氏)の一周忌に際して法華経に因んだ和歌を詠んでほしいという依頼を受けた三条西実隆が和歌を贈ったことが実隆の歌日記である『再昌章』(永正10年10月10日条)に記されており、彼女が永正9年(1512年)に没したことが判明する。
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