蒲生氏を継ぐとは? わかりやすく解説

蒲生氏を継ぐ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/19 14:40 UTC 版)

蒲生貞秀」の記事における「蒲生氏を継ぐ」の解説

蒲生氏13当主蒲生秀綱の実弟和田氏継いでいた和田政秀(秀憲)の子として誕生男児のなかった伯父の秀綱の娘を娶って蒲生氏家督相続し14当主となると同時に蒲生貞秀名乗る応仁の乱においては東軍方であり、義兄弟小倉実澄お互いの妻が姉妹)などと行動を共にした。また、応仁文明年間1467年 - 1486年)に音羽城築城し、城主となった近江国南部の有力国人として室町幕府と結びついており、延徳3年1491年)における第2次六角高頼征伐延徳の乱)の際に10代将軍足利義材から蒲生郡散在所職名田以下の所領安堵受けた。しかし、明応の政変で義材が失脚する11代将軍・足利義澄と六角高頼との間で和議成り、しだいに高頼は南近江勢力盛り返した明応4年1495年)に高頼が近江守護返り咲く蒲生氏も南近江勢力として実質的に六角氏組下属すことになる。 同年に貞秀は52歳出家長男の秀行に家督譲り智閑(知閑)と号するまた、次男高郷を高頼に出仕させ、三男の秀順は音羽姓を名乗り細川氏へと仕えさせた。 時期不明であるが、貞秀は東坊城家分家である西坊城顕長の娘の言子を後室迎えている。彼女は文正元年1466年)に12歳後土御門天皇内侍召されて新内侍と呼ばれていたが、文明4年1472年)に後花園院仕えていた宗家東坊城益長の娘である左衛門督局が内侍として内裏復帰するとどちらを上位とするかで争いとなり、その争い敗れた言子は宮中去って貞秀に嫁いだ明応9年1500年)、後土御門天皇崩御した際に出家して西入道)知祐と名乗っていた顕長が近江から上洛して宗家当主である東坊城和長(益長の孫)の配慮で特に新帝である後柏原天皇への拝謁許された(『明応凶事記』)とあり、顕長も貞秀を頼って下向したと推定されるまた、永正10年1513年)、蒲生貞秀から妻で故大蔵卿入道長の娘である内侍東西坊城家菅原氏)の一周忌に際して法華経因んだ和歌詠んでほしいという依頼受けた三条西実隆和歌贈ったことが実隆の歌日記である『再昌章』(永正10年10月10日条)に記されており、彼女が永正9年1512年)に没したことが判明する

※この「蒲生氏を継ぐ」の解説は、「蒲生貞秀」の解説の一部です。
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