蒲生氏郷・脇坂安治
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2016/02/16 09:34 UTC 版)
「比自山城の戦い」の記事における「蒲生氏郷・脇坂安治」の解説
蒲生氏郷と脇坂安治は耳須弥次郎の案内のもと、7,000人の兵で伊賀に攻め込んだ。両者は玉滝寺に本陣を構え、下鞆田の雨請山城にて藤林長門守と交戦した。雨晴山城は最初のうちはよく防いだが、日没が近づくと弾丸や矢が尽き落城した。この後の長門守の動向は不明。また案内役の耳須は植田光次の命を受けた土民(小田村の与助と左八)に暗殺された。 佐那具まで兵を進めた氏郷は本陣を構え祝宴を開いたが、そこを伊賀衆に奇襲されて兵は混乱した。しかし次の日には陣を立て直し、平楽寺へ向かった。しかしここに篭っていたのは僧兵のみで、他の豪族らは比自山へ詰めていた。そのため平楽寺は半日足らずで落城し、中にいた人間は斬られた。次に氏郷は町井左馬充(町井貞信の父)の篭る館へ攻勢をかけた。左馬充は妻のお清と共に館より討って出て多数の敵兵を討ち取ったけれども、ついに夫妻ともども力尽きた。織田勢はお清のことを「伊賀には惜しき名花よ」と賞し、町井左馬充夫妻の遺骸を手厚く葬った。
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