抗争期
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/01/08 05:33 UTC 版)
明応2年(1493年)に灰野原の戦いで勝利した牧野成時(古白入道)は豊川の東岸へ渡り、二連木城の西1km半ほどの所に永正2年(1505年)今橋城(後に吉田城に改名。現在の豊橋市今橋町)を築いた。 しかし、戸田氏と二連木城にとってみれば、憂慮する事態である。渥美郡(豊川・朝倉川南岸)の完全なる支配を目論む戸田氏には、隣郡の宝飯郡から牧野氏が、わざわざ豊川を越えてまで築いてきた今橋城の存在は目障りでしかなかった。そもそも今橋城の大手門は、築城時には東へ向けられていた。すなわち、東に在った二連木城への対抗を意図した城砦であることは明白である。 同じ朝倉川南岸で近くに有るが、北の朝倉川方面から二連木城を見れば明らかに小山でありこの辺りで一番高い地点であるのに対し、今橋城(吉田城)は豊川・朝倉川の合流地点ではあるが、西に対しては少々高い地点であるものの南や東に対しては完全なる平城となっていた。この後、戸田氏は今橋城攻略に力を注ぎ始めた。 形態が異なる城のそれぞれの支配者、二連木城の戸田氏と、今橋城の牧野氏は築城の翌年(1506年)に激突、古白は敗死した。しかしこれは両氏による度重なる抗争の始まりでしかなく、目まぐるしく替わる支配権の奪い合いで、対立を深めた。やがて、これに西三河の松平氏も加わり、三つ巴の今橋城争奪の抗争は熾烈をきわめた。それは吉田城と改名後も同じである。 その吉田城争奪戦が沈静化するのは、今川義元が三河国の本格支配に乗り出した頃である。吉田城を入手した今川氏は、城代を派遣し三河支配の拠点と定めた。だが、永禄3年(1560年)5月の桶狭間の戦いで義元討ち死によって、支配力に陰りが出始めた。 その頃、吉田城城代として置かれていた大原資良(小原という文書も残る)と懇意となった二連木城主 戸田重貞は、永禄7年(1564年)に吉田城から人質となっていた母の奪還に成功、徳川家康陣営へ転属した。このため、二連木城(徳川陣営の戸田氏)と吉田城(今川氏)は再び敵対関係に陥った。
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