抗争事件後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/28 00:23 UTC 版)
事が、ともに山口組幹部だった地道と菅谷の確執にも一因があったことから、田岡は地道を説得した上で大野会・大野鶴吉会長に工藤組との手打ち交渉を指示。一方、菅谷に対しては山口組山健組・山本健一組長が説得に乗り出した。12月21日の田岡邸の新築祝いの席上、地道と菅谷が和解し、田岡は両者への処分を見送っている。 山口組と工藤組の手打ち式は、12月24日に別府市で行われた。仲介人は大野鶴吉、盃人は津村和麿。立会人は、工藤組側が竹田辰一で、山口組側が前山真砂好だった。山口組からは舎弟頭・松本一美、地道行雄、菅谷政雄、山本健一ら15人が出席した。工藤組からは松岡武ら15人が出席した。
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