東村山市秋津町説・清瀬市野塩説とは? わかりやすく解説

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東村山市秋津町説・清瀬市野塩説

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/17 03:09 UTC 版)

悲田処」の記事における「東村山市秋津町説・清瀬市野塩説」の解説

東京都東村山市秋津町比定地求める説。秋津町一帯として場所をしぼらない説と、秋津町4丁目35番の笹塚遺跡とする説の二つがある。 秋津町一帯説には、元々地元地名起源伝承中に武蔵国司となった文室秋津(ふんやのあきつ)がこの地に悲田処建てたことにより「秋津となった、とする伝承があることが背景にあると思われる文室秋津は『公卿補任』にも天長9(832年)から承和8(841年)まで武蔵守務めた記録があるので、悲田処開設の際の最高責任者が彼であることは間違いないが、だからといって名前と地名一緒というただそれだけ理由で即悲田処秋津にあったことになるのは論理の飛躍である。あくまで郷土伝承の域を出ない話と見るべきであろう。 また地名起源伝承とは別に、この悲田処秋津説が江戸時代の『武蔵名勝図会』に載っているものであるとされ、明治時代吉田東伍大日本地名辞書』にも採録されたことがあった。しかし『武蔵名勝図会』に「悲田処」の項があるのは事実であるが、著者その中で一切秋津にある」とは書いておらず、「しかと知るべきことにはあらねど、ここに出せり」と断っている。つまり「どこにあるかよく分からないので、とりあえず『南秋津村』(現秋津町)のところに載せておいた」という程度のものであり、読み手思いこみ勘違いによる完全な誤説である。 また笹塚遺跡説昭和初期縄文時代遺跡である同遺跡を、理由不明であるが地元人々悲田処の跡と誤解したことから生まれたもので、いずれにせよ比定地として何ら根拠のないものであるこの他秋津町説に類するものとして、秋津町の東隣の野塩地内比定地求め清瀬市野塩説があり、比定地として野塩西原遺跡清瀬市野塩1丁目322番地1、清瀬市野塩市民センター内)が挙げられている。しかしこちらは継続的な調査が行われておらず詳細不明である。

※この「東村山市秋津町説・清瀬市野塩説」の解説は、「悲田処」の解説の一部です。
「東村山市秋津町説・清瀬市野塩説」を含む「悲田処」の記事については、「悲田処」の概要を参照ください。

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