東村山市諏訪町説とは? わかりやすく解説

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東村山市諏訪町説

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/17 03:09 UTC 版)

悲田処」の記事における「東村山市諏訪町説」の解説

東京都東村山市諏訪町比定地求める説。比定地とされているのは中世に「久米川宿」が営まれ地域のうち「西宿」と呼ばれる地区で、現在の住所では諏訪町1丁目の中ほどに当たる。この地は先述所沢市松が丘説並び東山道武蔵路通過していた地でもある。 この地域の特徴は単に「悲田処があった」というだけでなく、かなり細かい伝承残されていることである。それによると、 悲田処建物は「板倉」「ハナヤ」「タケヤ」「ウメヤ」「薬師寺」の五棟からなっていた。 中心的な建物は「薬師寺」であり、これが悲田処本部というべき存在であった。 「薬師寺」は後に「正永寺」という寺となったが、「薬師寺」の名称は通称として残った。 「薬師寺」→「正永寺」の跡地諏訪町1丁目28番17号諏訪町自治会館周辺である。 という。このような歴史的展開まで踏まえた伝承他の地域にはない。 また昭和6(1931年)の『埼玉県史』編纂の際の調査により、「五十四代仁問番 悲田所」の印が発見されていることも注目に値する。「仁問番」とは困っている道中の人に声かけをして世話を焼く役職のことで、悲田処その後施設にあっても不自然ではない。また「五十四代」という大きな代数古代からの継承意識していると考えられる。この印は『埼玉県史』の調査書押捺され印影発見されたことによってその存在知られているだけであるが、もし本物であれば悲田所」=「悲田処」の名を異称として自らを古代悲田処後裔自称する何らかの施設が、この地域にかなり遅くまで存在していたことになる。 このように他の比定地には見られない非常に具体性の高い伝承物証残されていることから、悲田処設置場所として近代以降急速に本命視され始めた場所である。 この諏訪町説については、本命視されるはるか以前江戸時代郷土史家斎藤磯(さいとうかつき)が、そして現代では東村山市教育委員会史料編纂員・東原那美がそれぞれ単独で説を立てている。

※この「東村山市諏訪町説」の解説は、「悲田処」の解説の一部です。
「東村山市諏訪町説」を含む「悲田処」の記事については、「悲田処」の概要を参照ください。

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