入滅と没後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/01 06:10 UTC 版)
最澄は弘仁13年(822年)2月14日に伝燈大法師位を授かる。この頃には体調を崩していたようで、桓武天皇の国忌である3月17日に光定は「最澄法師重病を受く。命緒幾ばくならず。伝戒を許されざれば先帝の御願成就せず。」と、戒壇設立の勅許を催促している。 6月4日の辰の刻に入滅。廟所は比叡山東塔の浄土院。 毎日諸大経を長講して、慇懃精進に法をして久住せしめよ。国家を利せんが為、群生を度せんが為なり。努めよ、努めよ。(中略)年月灌頂の時節護摩し、仏法を紹隆して以って国恩に答えよ。 — 最澄、遺言 最澄の死を受けて藤原冬嗣、良峰安世、伴国通らが『山修山学の表』を天皇に奏請し、死後7日後に大乗戒壇の設立と天台僧育成制度の樹立について勅許が下りた。弘仁14年(823年)2月26日には、勅により一乗止観院を延暦寺と改称。同年3月17日に最初の得度が行われ、ついで4月14日に光定らが受戒した。同年10月17日に嵯峨天皇は『澄上人を哭す』の詩を賜う。 貞観8年(866年)7月12日に伝教大師の諡号が勅諡された。円仁の慈覚大師と共に日本史上の初の大師号である。 天台宗では開祖として現代に至るまで尊崇されており、2021年(令和3年)6月4日に延暦寺で、入寂後1200年の大遠忌法要が執り行われた。
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