オスロエネ王国
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オスロエネ王国
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パルティアがバビロニア地方を征服した頃には独立状態になった。ハランやエデッサはペルシャのパルティアとシリアのセレウコス朝との緩衝国となり、アラブ人のアブガル朝(英語版)[要リンク修正])がパルティアのシャーの臣下となってオスロエネ王国(英語版)(紀元前132年 - 244年)を3世紀以上にわたり治めた。 ハランは、ローマにはラテン語で「カルラエ」(Carrhae)の名で知られていた。ローマ共和国とパルティアの間で行われたカルラエの戦い(紀元前53年)の古戦場でもある。この戦いではスレナスに率いられたパルティア軍がクラッスス率いるローマ軍を大敗させ、クラッススは捕まり殺されている。217年、カラカラ帝はエデッサからパルティアとの戦いに赴く途上、この付近で近衛軍団長マクリヌスに殺された。ガレリウス帝は296年、パルティアを滅ぼしたサーサーン朝の軍勢にこの付近で敗北している。 ハランはオスロエネ王国のもとで非常に早い時期からキリスト教を受容しその中心地のひとつとなった。最初から教会にする目的で公開的に建設された最初の教会堂もハランにあった。ハランには司教も住んでいたが、ハラン市民の大部分は古代からの月神や星辰への信仰を続けた。
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