オスロでの党活動
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「ヴィリー・ブラント」の記事における「オスロでの党活動」の解説
デンマークに到着後コペンハーゲンで数日滞在した後にノルウェーのオスロに向かった。そしてオスロで党組織再建のための活動に従事し、遅れてこの1933年夏にゲルトルート・マイヤーがオスロに来て、二人は一緒に住むことになった。このゲルトルート・マイヤーはその3年後の1936年2月にノルウェー人「グナル・ガースラント」と偽装結婚してノルウェーの国籍を取得して、以降ドイツへの連絡役を無難にこなした。このブラントとゲルトルート・マイヤーは1939年春まで一緒にいたが結婚はしなかった。そして名目上の夫であるグナル・ガースラントはブラントを支援し仲間として旅行やスポーツなどの活動に積極的に参加し、そして1936年に危険なベルリンへの潜入のために偽造パスポートに自分の名前を使わしてくれた人物であった。ブラントはまたこのオスロ仲間の一人から警察の追及を避けるためにオスロ大学に籍を置くことを勧められて、学籍登録して歴史学を専攻した。そしてこのオスロ大学でアンナ・カルロータ・トルキルゼンというノルウェー人女性と知り合った。 ブラントのオスロでの任務はドイツ社会主義労働者党(SAP)のノルウェー海外事務所を設立し、同時に外国における党の青年同盟の活動をコーディネートすることであった。そして彼の折衝相手はノルウェー労働党であり、この党はブラントを経済的支援をして、またブラントが警察の手で故国へ送還されるのを防いでくれた。ただ当時のオスロのドイツ外交部には「フラーン(Frahn)という名のアジテーターが登場している」という1933年8月9日付けのメモがあった。ノルウェーでの滞在許可が下りた時に政治的活動はしないとの条件が付けられていたが、ブラントはそれに従うつもりはなく、1933年4月11日付けのノルウェー労働党の機関紙に寄稿記事を書き始め、さまざまなペンネームを使って、やがてオスロに集まった亡命者のための新聞の活動を展開して、このオスロにいる時代にジャーナリストとして活躍していった。そしてこの時に“ヴィリー・ブラント”を名乗り、やがてオランダやフランスのパリ、ベルギーそして元のドイツのベルリンを訪ね、ベルリン滞在中はノルウェー人になりきり、ノルウェー語なまりのドイツ語を話していた。 1936年のクリスマス直前にブラントはベルリンを去ってチェコスロバキアを訪ね、ここでユダヤ系オーストリア人ブルーノ・クライスキーと知り合った。その後ポーランドを経てオスロに戻ったが、すぐにドイツ社会主義労働者党指導部からバルセロナに行きスペイン内戦の状況についての報告を求められて、1937年2月にスペインに向かい、そしてこのスペイン内戦の取材活動を行った。ここでブラントは左翼陣営内の争いを見て、コミンテルンの横暴を知り、それは後々まで忘れることはなかった。1937年6月にスペインを離れパリに到着し、ドイツ社会主義労働者党指導部の拡大会議に出席してスペイン内戦の報告を行った際に、「己に同質化しようとしないあらゆる勢力を殲滅しようとするコミンテルン」を非難し「国際的な労働運動はコミンテルンのその種の攻撃を防ぐ必要がある」と述べて「インチキな手段、下品な中傷、虚偽、テロルという手段を阻止しなけらばならない」と述べた。このスペイン内戦でブラントがスターリン主義の共産主義相手になめた経験は、社会民主主義でも急進派であったブラントを主流派に再び接近する重要なインパクトとなった。またブラントのその後の政治的な経歴にとって決定的な部分となったのはノルウェー労働党であった。早くにコミンテルンから離れ1939年までに路線転換して、改革政策で労働者階級の利害と要望に応え成果を上げていることをブラントは学んだ。
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