ウェルケラエの戦い
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ウェルケッラエの戦い | |
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![]() ジョヴァンニ・バッティスタ・ティエポロによる絵画 | |
戦争:キンブリ・テウトニ戦争 | |
年月日:紀元前101年 | |
場所:ウェルケッラエ | |
結果:ローマ軍の決定的勝利、キンブリ族の滅亡 | |
交戦勢力 | |
キンブリ族 | 共和政ローマ |
指導者・指揮官 | |
族長ボイオリクス | ガイウス・マリウス |
戦力 | |
戦士210,000 | 軍団兵80,000 |
損害 | |
死亡140,000 捕虜60,000 |
死亡1,000 |
ウェルケッラエの戦い(ウェルケッラエのたたかい)は、紀元前101年にガッリア・キサルピーナに侵入したキンブリ族の軍勢とローマ軍の間で起こった戦い。この戦いとアクアエ・セクスティアエの戦いとを合わせてキンブリ・テウトニ戦争と呼び、同戦争で歴史的勝利を得たガイウス・マリウスは民衆派の英雄となった。
経過
テオドール・モムゼンによると、ハンニバルがかつてローマ軍と戦いを繰り広げた古戦場で両者は遭遇し、マリウスは決戦の場を見通しのよい平原を選んだ。地の利を得たローマ騎兵はキンブリ族の騎兵隊を圧倒し、マリウス軍はそのまま一方的にキンブリ人を打ち負かした。
移動する部族は往々にして一族で行動を共にするため、敗北を知った一部のキンブリ族女性が子供と共に自害した。また生き残った者達はその殆どが奴隷として過酷な運命を辿る事になった。
結果

フランスの画家アレクサンドル=ガブリエル・ドゥカンによる『キンブリ族の敗北』(«La défaite des Cimbres» par Alexandre-Gabriel Decamps )
この戦いの前にアクアエ・セクスティアエの戦いでマリウスはテュートン族も一方的に撃破し、その存在を根絶やしにした。敗北の報を聞いた後続の蛮族達は、ローマ軍に恐れをなして故郷へと逃げ帰っていった。
政争の激化や経済的混乱によって対外戦争で敗北を続けていたローマ共和国は一応の安定を得る事になり、マリウスは救国の英雄として尊敬を集めた。しかし勝利の要因となったマリウスの軍制改革は同盟市民とローマ市民の待遇差を巡る政争に火を付ける結果ともなり、いわゆる同盟市戦争への切っ掛けとなった。
元老院支配の終わり
更に旧態依然の主張を続ける元老院に対し、マリウスは「戦場においては、同盟市民とローマ市民の差は何もなかった」と一蹴し、そればかりか独断で軍に加わっていた同盟市民にローマ市民権を与える行動に出た。これは共和制が始まって以来、将軍が元老院を軽蔑的に扱った最初の例であった。また閥族派である政敵のルキウス・コルネリウス・スッラも(元老院の権威を守る為とはいえ)、元老院の指示を無視して軍をローマに進駐させており、元老院の権威が衰えた事を示している。
最終的にマリウスの義理の甥であるガイウス・ユリウス・カエサルによるルビコン川の渡河によって、元老院の権威は完全に地に落ちる。
その他
戦いが行われた地域に関しては考古学の分野で議論が続けられている。
関連項目
ウェルケラエの戦い
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「クィントゥス・ルタティウス・カトゥルス」の記事における「ウェルケラエの戦い」の解説
次の戦いのために、執政官マリウスと前執政官カトゥルスは、軍を統合してポー川を渡り、そこにいたキンブリ族を追い払おうとした。しかしキンブリ族は戦闘を拒否し、テウトネス族を待っているだけと主張した。彼らは自分たちが居住可能な土地をマリウスに要求した。マリウスがこれを拒否するとキンブリ族はローマ軍に向かってきた。これを野戦陣地で防いだ後、ウェルケラエ付近の比較的狭小な土地にキンブリ族を追い込んだ。このためキンブリ族は補給が困難になった。紀元前101年7月30日、ウェルケラエで決戦が行われた。 古代の記録では、ゲルマン人の軍勢は「巨大で恐るべき兵数」であり、「無限に広がる海のように見え」、歩兵の陣形は幅30スタディオン(5.8 km)もあり、15,000の騎兵を有していた。シケリアのディオドロスは総兵力40万としている。現代の歴史学者は、キンブリ族の兵力は45,000-48,000、あるいはさらに少なく25,000-30,000 と推定している。一方でローマ軍の兵力は52,300で、うち20,300をカトゥルスが率いていた。 マリウスはカトゥルスの軍を中央に配置し、自分の部隊を前方両側面に置いた。後にカトゥルスとスッラは、この配置はマリウスが勝利の栄光を全て自分のものにするためだったと主張している。しかし、これは明らかに間違いである。おそらく、カトゥルスの兵はマリウスの兵に比較して訓練が十分でなく、このため受動的な役割を求められた。プルタルコスによると、マリウスの兵は命令に反し、最初の攻撃をかけた後に後退したキンブリ族の騎兵を追撃した。しかし、厚い土煙のために「平原をさまよう」状態になってしまい、同時にキンブリ族の歩兵が攻撃を開始した。キンブリ族の歩兵は「偶然に」カトゥルスの分遣隊と遭遇し、ここが主戦場となった。 スッラとカトゥルスの記憶に基づくこの説明の信憑性は、歴史家によって論争されている。実際には想定外の出来事は、ローマ側にはるかに少なかった。マリウスの兵はキンブリ族の騎兵を撃退し、両翼の兵はキンブリ族野営地付近で合流した。これでキンブリ族は退路を絶たれたことになる。カトゥルスはキンブリ族主力の攻撃に耐えていたが、ここにマリウスの軍が後方から攻撃を開始した。この時点から戦闘は虐殺へと変わる。古代の資料は12万、あるいは14万 が戦死し、6万人が捕虜になったとする。ウェッレイウス・パテルクルスは戦死・捕虜10万と書いている。 戦いの直後、勝利に最も貢献したのは誰かをめぐって、兵士たちの間で論争が始まった。パルマから派遣された使節が仲裁人となった。カトゥルス隷下の兵士達は戦場に戻り、キンブリ兵の体に突き刺さった槍を見せた。ほとんどの槍の先端にカトゥルスの名が刻まれていた。その仲裁の結果については何も知られていないが、おそらくこのような論争はその時代にはよくあったことであり、カトゥルス自身はこれには関与していない。 勝利の後、マリウスとカトゥルスは共同で凱旋式を実施した。プルタルコスによると、ローマ市民はマリウス単独での凱旋式を求めたが、マリウスはカトゥルスの兵達が不満に思うことを恐れ、これを拒否して共同凱旋式を祝ったとする。実際には、マリウスはカトゥルスを同盟者として留めておきたかったし、上流階級に新たな反感を与えることも望まなかったのであろう。カトゥルス自身は戦利品の利益を使ってパラティヌスの丘に大邸宅を建て、ガイウス・グラックスの支持者であったマルクス・フルウィウス・フラックス の邸宅の跡地にポルチコ(柱列として拡がるポーチ)を建設した。何れの建物も、戦利品で装飾されていた。加えて、フォルトゥナ神殿を、ペイディアスが作製した2体の像で装飾した。
※この「ウェルケラエの戦い」の解説は、「クィントゥス・ルタティウス・カトゥルス」の解説の一部です。
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