ウェルケラエの戦いとは? わかりやすく解説

ウェルケラエの戦い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/12/07 20:19 UTC 版)

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ウェルケッラエの戦い

ジョヴァンニ・バッティスタ・ティエポロによる絵画
戦争キンブリ・テウトニ戦争
年月日紀元前101年
場所:ウェルケッラエ
結果:ローマ軍の決定的勝利、キンブリ族の滅亡
交戦勢力
キンブリ族 共和政ローマ
指導者・指揮官
族長ボイオリクス ガイウス・マリウス
戦力
戦士210,000 軍団兵80,000
損害
死亡140,000
捕虜60,000
死亡1,000

ウェルケッラエの戦い(ウェルケッラエのたたかい)は、紀元前101年ガッリア・キサルピーナに侵入したキンブリ族の軍勢とローマ軍の間で起こった戦い。この戦いとアクアエ・セクスティアエの戦いとを合わせてキンブリ・テウトニ戦争と呼び、同戦争で歴史的勝利を得たガイウス・マリウス民衆派の英雄となった。

経過

テオドール・モムゼンによると、ハンニバルがかつてローマ軍と戦いを繰り広げた古戦場で両者は遭遇し、マリウスは決戦の場を見通しのよい平原を選んだ。地の利を得たローマ騎兵はキンブリ族の騎兵隊を圧倒し、マリウス軍はそのまま一方的にキンブリ人を打ち負かした。

移動する部族は往々にして一族で行動を共にするため、敗北を知った一部のキンブリ族女性が子供と共に自害した。また生き残った者達はその殆どが奴隷として過酷な運命を辿る事になった。

結果

ローマ軍に滅ぼされたキンブリ族。
フランスの画家アレクサンドル=ガブリエル・ドゥカンによる『キンブリ族の敗北』(«La défaite des Cimbres» par Alexandre-Gabriel Decamps

この戦いの前にアクアエ・セクスティアエの戦いでマリウスはテュートン族も一方的に撃破し、その存在を根絶やしにした。敗北の報を聞いた後続の蛮族達は、ローマ軍に恐れをなして故郷へと逃げ帰っていった。

政争の激化や経済的混乱によって対外戦争で敗北を続けていたローマ共和国は一応の安定を得る事になり、マリウスは救国の英雄として尊敬を集めた。しかし勝利の要因となったマリウスの軍制改革は同盟市民とローマ市民の待遇差を巡る政争に火を付ける結果ともなり、いわゆる同盟市戦争への切っ掛けとなった。

元老院支配の終わり

更に旧態依然の主張を続ける元老院に対し、マリウスは「戦場においては、同盟市民とローマ市民の差は何もなかった」と一蹴し、そればかりか独断で軍に加わっていた同盟市民にローマ市民権を与える行動に出た。これは共和制が始まって以来、将軍が元老院を軽蔑的に扱った最初の例であった。また閥族派である政敵のルキウス・コルネリウス・スッラも(元老院の権威を守る為とはいえ)、元老院の指示を無視して軍をローマに進駐させており、元老院の権威が衰えた事を示している。

最終的にマリウスの義理の甥であるガイウス・ユリウス・カエサルによるルビコン川の渡河によって、元老院の権威は完全に地に落ちる。

その他

戦いが行われた地域に関しては考古学の分野で議論が続けられている。

関連項目


ウェルケラエの戦い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/05 03:02 UTC 版)

クィントゥス・ルタティウス・カトゥルス」の記事における「ウェルケラエの戦い」の解説

次の戦いのために、執政官マリウス前執政官カトゥルスは、軍を統合してポー川渡り、そこにいたキンブリ族追い払おうとした。しかしキンブリ族戦闘拒否しテウトネス族待っているだけと主張した。彼らは自分たちが居住可能な土地マリウス要求したマリウスがこれを拒否するキンブリ族ローマ軍向かってきた。これを野戦陣地防いだ後、ウェルケラエ付近比較狭小な土地キンブリ族追い込んだこのためキンブリ族補給困難になった。紀元前101年7月30日ウェルケラエ決戦が行われた。 古代の記録では、ゲルマン人軍勢は「巨大恐るべき兵数」であり、「無限に広がる海のように見え」、歩兵陣形は幅30スタディオン(5.8 km)もあり、15,000騎兵有していた。シケリアのディオドロスは総兵力40万としている。現代の歴史学者は、キンブリ族兵力45,000-48,000、あるいはさらに少なく25,000-30,000推定している。一方でローマ軍兵力52,300で、うち20,300カトゥルス率いていた。 マリウスカトゥルスの軍を中央配置し自分部隊前方両側面に置いた。後にカトゥルススッラは、この配置マリウス勝利栄光全て自分のものにするためだった主張している。しかし、これは明らかに間違いである。おそらく、カトゥルスの兵はマリウスの兵に比較して訓練が十分でなく、このため受動的な役割求められた。プルタルコスによると、マリウスの兵は命令反し最初の攻撃をかけた後に後退したキンブリ族騎兵追撃した。しかし、厚い土煙のために「平原さまよう」状態になってしまい、同時にキンブリ族歩兵攻撃開始したキンブリ族歩兵は「偶然にカトゥルス分遣隊遭遇し、ここが主戦場となったスッラカトゥルス記憶に基づくこの説明信憑性は、歴史家によって論争されている。実際に想定外出来事は、ローマ側はるかに少なかったマリウスの兵はキンブリ族騎兵撃退し両翼の兵はキンブリ族野営地付近合流した。これでキンブリ族退路絶たれたことになる。カトゥルスキンブリ族主力攻撃に耐えていたが、ここにマリウスの軍が後方から攻撃開始した。この時点から戦闘虐殺へと変わる。古代の資料12、あるいは14戦死し、6万人捕虜になったとする。ウェッレイウス・パテルクルス戦死捕虜10万と書いている。 戦い直後勝利に最も貢献したのは誰かめぐって兵士たちの間で論争始まったパルマから派遣され使節仲裁人となったカトゥルス隷下兵士達戦場戻り、キンブリ兵の体に突き刺さった見せた。ほとんどの先端カトゥルスの名が刻まれていた。その仲裁結果については何も知られていないが、おそらくこのような論争その時代にはよくあったことであり、カトゥルス自身はこれには関与していない。 勝利の後、マリウスカトゥルス共同凱旋式実施したプルタルコスによると、ローマ市民マリウス単独での凱旋式求めたが、マリウスカトゥルスの兵達が不満に思うことを恐れ、これを拒否して共同凱旋式祝ったとする。実際には、マリウスカトゥルス同盟者として留めておきたかったし、上流階級新たな反感与えることも望まなかったのであろうカトゥルス自身戦利品利益使ってパラティヌスの丘大邸宅を建て、ガイウス・グラックス支持者であったマルクス・フルウィウス・フラックス邸宅跡地ポルチコ列として拡がるポーチ)を建設した何れの建物も、戦利品装飾されていた。加えてフォルトゥナ神殿を、ペイディアス作製した2体の像で装飾した

※この「ウェルケラエの戦い」の解説は、「クィントゥス・ルタティウス・カトゥルス」の解説の一部です。
「ウェルケラエの戦い」を含む「クィントゥス・ルタティウス・カトゥルス」の記事については、「クィントゥス・ルタティウス・カトゥルス」の概要を参照ください。

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