回想録作家として
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「クィントゥス・ルタティウス・カトゥルス」の記事における「回想録作家として」の解説
カトゥルスは執政官時代の回顧録『執政官とその功績(De consulatu et de rebus gestis suis)』を書いているが、これはクセノポンのような柔軟な文体で書いたもので、友人で詩人のアウルス・フリウスに捧げられた。カトゥルスはマルクス・アエミリウス・スカウルスやプブリウス・ルティリウス・ルフスと並ぶ、初期の回想録作家の一人であり、クセノポンの著述方法を参考にしている。 カトゥルスの回想録は現存しないが、プルタルコスが引用しているために、その内容を知ることができる。対比列伝のマリウス伝には、マリウスがカトゥルスの軍を(防御戦闘が中心となる)中央に、自分の軍を(より攻撃的になる)側面に置いて、キンブリ族に対する勝利の栄光を独り占めしようとしたと、カトゥルスがマリウスを非難したと書かれている。また、ゲルマン人との決戦では、キンブリ族は暑さに耐えられず、大量の汗をかき、呼吸が苦しく、顔の前で盾を持つことを余儀なくされたが、ローマ兵は平気であった主張している。これはおそらくカトゥルスの軍の構成と、カトゥルスの野営地に敵の「鎧、軍章、等が持ち込まれ」、キンブリ族を倒したのは自分たちであるとの主張に基づいていると思われる。スッラがウェルケラエの戦いの勝利に大きく貢献したのは明らかだが(ある研究者は、カトゥルスが自分の家に飾った戦利品には、「スッラからの贈り物」と言うべきものと書いている)、カトゥルスはそれには触れていない。このような記載内容から、この回想録は非常に偏ったものであったと結論づけられている。その目的は、キンブリ・テウトニ戦争の主な功労者を自分自身とし、マリウスの策略を非難することであった。現代の歴史学者は、この回想録を「妬みと悪意が濃く混じった将軍の自画自賛の例」と呼んでいる。 おそらく、カトゥルスの回想録は、スッラが回想録を作成する際に参考にされたであろう。すでに紀元前46年の時点で、カトゥルスの回想録はスカウルスのそれと同じ運命を辿っていた:すなわち誰も読まなくなっていたのだ。プルタルコスは「カトゥルス自身が話したと言われている」、あるいは「カトゥルス自身が書いたと言われている」 と、伝聞系で書いていることから、彼自身が回顧録を直接読んでいたわけではないのだろう。 また、カトゥルスは『共有する歴史(Communes historiae)』という作品を書いたとされるが、現存する3つの断片から判断して、神話に関するものであったようだ。
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