回想録と死
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/10/11 12:44 UTC 版)
「ナサニエル・ラクソール (初代準男爵)」の記事における「回想録と死」の解説
1815年に回想録(Historical Memoirs of my own Time, from 1772 to 1784)を出版した。初版1,000部はわずか5週間で売り切れたが、元在イギリスロシア大使(英語版)セミョーン・ヴォロンツォフ伯爵に文書誹毀罪で訴えられたため二刷は一時中断された。ラクソールは有罪判決を受け、500ポンドの罰金と6か月間の投獄を宣告されたが、ヴォロンツォフの働きかけにより3か月に減刑された。そして、釈放されたラクソールはすぐさまに誹毀とされる内容を除去した第2版を出版(1816年6月)、わずか2か月後の8月に売り切れた。同時代の文学雑誌では『クォータリー・レビュー』、『エディンバラ・レビュー(英語版)』、『ブリティッシュ・クリティック(英語版)』が軒並み批判したが、ラクソールは1818年に第3版を出版して批判に反論した。ラクソールの回想録は前半が1772年から1780年までの大陸ヨーロッパにおける旅に関する内容で、後半が庶民院での見聞だったが、『英国議会史(英語版)』(1964年)はラクソールと親しかった政界の指導者が初代サックヴィル子爵ジョージ・ジャーメインしかおらず、ラクソールが政界の秘密を知りえる情報源が少ないと分析した上でラクソールの回想録の前半を「ゴシップと些細なことに満ち」(full of gossip and triviality)、後半を「ごった煮」(hotch-potch)と批判した。具体例として、「ジョン・ロス・マッカイ(John Ross Mackye、1707年 – 1797年)が議員120名に贈賄してパリ条約に賛成させた」といった荒唐無稽な噂がある一方、「ジョージ3世が1783年に退位を熟考した」といった同時代でも知る人の少ない事実も含まれている。 ラクソールは1784年以降の内容についても書き続けたが、ヴォロンツォフの件もあって、今度は死後に出版するよう厳命した。そして、1831年11月7日、ナポリに向かう道中でドーヴァーで死去、ドーヴァーの聖ジェームズ教会(英語版)に埋葬された。息子ウィリアムが準男爵位を継承した。死後の1836年に『遺稿回想録』が出版されると、今度は『エディンバラ・レビュー』『ジェントルマンズ・マガジン(英語版)』『ロンドン・アンド・ウェストミンスター・レビュー(英語版)』で賞賛された。 『英国議会史』によると、ラクソールの回想録が後世に賞賛される理由はその観察眼にあり、特に(平議員など)あまり重要でない政治家の描写が迫真だった。『ロンドン・アンド・ウェストミンスター・レビュー』が『遺稿回想録』を「議会の叙事詩」(parliamentary epic)と形容したように、『オックスフォード英国人名事典』は1815年と1836年の回想録の両方でジョージ3世の病気、ウォーレン・ヘースティングズの弾劾裁判、デヴォンシャー公爵夫人ジョージアナ・キャヴェンディッシュ、フォックス、小ピット、エドマンド・バークなどの活動が鮮明に描写されていると評し、『英国議会史』も回想録がノース政権末期や小ピットとフォックスの権力争いの迫力を再現し、「まるで見物人のように議員をみて、議員が話すのを聞くよう」という高評価を下した。
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