歴史上の初出とローマとの攻防
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2016/01/07 01:38 UTC 版)
「ティグリニ族」の記事における「歴史上の初出とローマとの攻防」の解説
ティグリニ族の名前が最初に見えるのは、紀元前113年から同101年まで続いたキンブリ・テウトニ戦争において同盟を締結したという文脈の中においてである。紀元前109年、ティグリニ族はライン川を渡りローマ属州のガリア・ナルボネンシスに侵入した。紀元前107年にはローマ領である現在のフランス・プロヴァンスへに向けて南下すると、さらに西方のフランス・アジャン付近で執政官のルキウス・カッシウス・ロンギヌス率いるローマ軍を打ち破った(ブルディガラの戦い) 。ティグリニ族はキンブリ族がアルプス山脈を越えて戦いを継続しようとするのに付き従ったが、結局アルプス越えは果たせずブレンナー峠に留まることになった。 しかし趨勢であった対ローマ戦線も次第に劣勢となり、対ローマの主導的立場であったキンブリ族・テウトニ族がアクアエ・セクスティアエの戦い・ウェルケラエの戦いで各個撃破されて、キンブリ・テウトニ戦争は共和政ローマの勝利で集結した。敗戦の報に接しティグリニ族はもともとの居住地であるスイス西部のスイス高原や、スイス南西部のレマン湖の北に広がるジュラ山脈へと戻っていった。ティグリニ、そしてヘルウェティイの名は「脅威をもたらした北方の蛮族」としてローマ人に記憶され、のちにこの「蛮族」が再び動き出したと主張するガイウス・ユリウス・カエサルのガリア遠征の口実になった(ガリア戦争)。 紀元前58年、ヘルウェティイ族はカエサル率いるローマ軍に遭遇し、大敗北を喫してその多くが殺されることとなった(アラル川の戦い・ビブラクテの戦い)。死者は22万8000にのぼったと伝わっている。これらの戦いは紀元前58年から同51年にかけてのガリア戦争の最初の戦闘となった。ローマに征服されたのち、紀元前52年ヘルウェティイ族はウェルキンゲトリクスの反乱に加わり敗北、ローマとの同盟 (foederati) の地位を失った。 ローマ人はガリアへの進軍経路を確保するため、ヘルウェティイ族の居住地であるノウィオドゥヌム(現在のニヨン)の地にユリア・エクェストリス植民市を建設した。ボワ・ド・シャテルの城塞都市(オッピドゥム)の遺跡は紀元前1世紀の後半までは残っていたが、新たに建設されたヘルウェティイ族の首邑アウェンティクム(英語版)(現在のアヴァンシュ(英語版)付近)に都市の住民が移住するのにしたがって紀元1世紀の前半に放棄・破壊されたとみられる。 ローマの支配下においてもヘルウェティイ族は4つの支族(パグス)という形を保ち続け、紀元60年代までは完全な自治権も有していたと考えられる。68年にネロ帝が死去しローマ内戦が始まると、ヘルウェティイ族はネロに反旗を翻したセルウィリウス・スルピキウス・ガルバを支援したが、翌69年にはウォケティウス山(現在のベツベルク(英語版))の峠で撃破された。これ以降急速にローマ化が進行し、それまでのヘルウェティイ族としてのアイデンティティは次第に失われていった。
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