ウェルケラエ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/16 03:50 UTC 版)
詳細は「ウェルケラエの戦い」を参照 陣営地に到着したマリウスはカトゥルスを叱咤し、またロダヌス川の軍も呼び戻してキンブリ族と対峙した。キンブリ族の側はテウトネス族らの敗北をまだ知らず、勝ち誇った態度で自分達と「その兄弟」に土地を渡す様にマリウスへ使者を送った。マリウスが「兄弟とは誰か」と尋ね、キンブリ族がテウトネス族の事だと答えるとマリウスは大笑いして以下の様に答えた。 兄弟の事は放念召されよ。かの者らはちゃんと土地持っておるばかりでなく、これから先も未来永劫に我らの与えた土地に住まわれるであろうゆえな テウトネス族が滅ぼされた事を知ったキンブリ王ボイオリクスは護衛兵のみを連れてマリウスの陣営地を訪れ、決戦場を定めようと提案した。決闘形式の合戦はローマの慣例に無かったが、マリウスは受けて立ち、ポー川上流にあるウェルケッラエという平原で3日後に相対する事となった。 マリウスはカトゥルスと敗走してきた2万300名の軍団兵に中央の防御を命じ、ロダヌス川から呼び戻した3万2000名の軍団兵をその両翼に配置する陣形を組んだ。大会戦では正面よりも両翼が重要な役割を担うと考えられた為、カトゥルスやその幕僚だったスッラは汚名返上の機会をマリウスが与えてくれなかったと不満を抱いた。しかし砂埃によって視界を失った両翼の軍勢がキンブリ軍を大きく回り込み過ぎた為、結果的には中央が戦列を支える形での乱戦となった。厳寒には強くとも暑さには慣れていないキンブリ族は地中海沿岸部に降り注ぐ夏の日差しに体力を奪われ、装備や練度で上回る軍団兵の粘り強い戦いを前に徐々に押されていった。 長い戦いの末にボイオリクス王が戦場で討ち取られるとキンブリ軍は総崩れとなり、ローマ軍の追撃によって壊滅した。戦場に同伴していた女性達は敗北を知ると次々と我が子を絞め殺した上で自らの首も掻き切り、その凄惨な最期は長らくローマ人に記憶された。2度に亘る戦勝でキンブリ族・テウトネス族・アンブロネス族は歴史上から存在を消し、他に続くと思われていた勢力はローマに恐れをなして故郷へと逃げ帰り、共和国を揺るがした危機は遂に解決された。 ローマに戻ったマリウスが軍団兵を率いて凱旋式を執り行い、ローマ人を恐れさせたテウトボド(英語版)をフォロ・ロマーノで絞首刑にすると、その権威は頂点に達した。民衆はマリウスをロムルス、カミルスに次ぐ「第三の建国者」と呼び、歴史的な勝利を讃える戦勝像や記念碑が建てられ、神々と並んでマリウスに供物を捧げたという。
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