カトゥルス、スッラの離反
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/16 03:50 UTC 版)
「ガイウス・マリウス」の記事における「カトゥルス、スッラの離反」の解説
平民出身であるマリウスの権威は民衆派の台頭へと繋がった。彼らは護民官職と平民の保護を大義名分としたグラックス兄弟が失敗した事から、執政官職と軍事権を持つマリウスによる元老院体制の打倒を目指し始めた。マリウスも戦功を上げた同盟市民の退役兵に独断でローマ市民権を付与し、軍を重視して元老院を軽んじる行動を見せていた。対する閥族派はマリウスへの警戒感を強め、カトゥルスやスッラなど近い立場にあった者でマリウスと敵対する人物も現れた。 マリウスの腹心であったカトゥルスは緒戦の敗北でキンブリ人から逃げ去ったとローマ人から嘲笑されており、ウェルケラエでその汚名を返上したものと考えていた。現実にはカトゥルスの存在は全く関心を持たれず、敵兵に刺さった投槍に指揮下の軍団名が多く彫られている事を証として調停役の使者に訴えたが相手にされなかった。民衆はマリウスにのみ二度の凱旋式を認めるべきと讃え、カトゥルスは惨めな思いをした。マリウス自身は共に戦ったカトゥルスの功績を忘れず、凱旋式も二人で行う事を提案して戦勝を分かち合っている。だがマリウスがそうであっても彼を支持する平民や民衆派の政治家達は異なり、やがてカトゥルスはマリウスから離反した。 ユグルタ戦争以来、戦功について異議を唱えていたスッラとは和解しており、二度目の執政官任期では副将、三度目の執政官任期では軍団長代理として登用している。スッラもこれに応えて功績を挙げていたが、与えられる役割だけでは満足できなくなり、マリウスが四度目の任期で同僚執政官に指名したカトゥルスの指揮下に移っている。結果的にカトゥルスの不名誉に巻き込まれる形となった事で、再びマリウスへの敵愾心を深めて敵対関係に回帰した。プルタルコスによるカトゥルスの擁護についても、殆どはスッラが主張した言い分に基いている。 プルタルコスは民衆の評価は不公平であったと述べているが、テオドール・モムゼンは何ら不公平ではないとしている。そもそもマリウスとカトゥルスの軍事的才能や実績に大きな差がある事はもちろん、マリウスは2つの会戦で一貫して最高司令官を務めており、何より一度目の会戦での圧勝が無ければ2度目の会戦は存在し得なかったからである。モムゼンはユグルタ戦争も含めて、この時代の人物評は「民衆派」と「閥族派」という党派性が強く影響したと指摘している。
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