ベトナム帰国
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/06 04:06 UTC 版)
詳細は「フランスによる阮福暎への援助」を参照 一行は1787年12月にドリアーデ号に乗ってフランスから離れ、1788年5月から1789年7月までポンディシェリーに寄港しながら帰国した。フランスから戻ると、彼は祖先の位牌の前に跪くことを拒否、さらに仏像に十字架を塗らせた。彼はカトリック教会のミサに参加し、洗礼を希望したがかなわなかった。 1793年、阮福景は「東宮皇太子」(ベトナム語: Đông Cung Hoàng Thái tử)の称号を授けられた。1794年以降、彼はすべての軍事遠征に参加し、父の阮福暎は毎回ピニョー・ド・ベーヌと同行するよう要求した。1794年には延慶城(英語版)で西山朝に包囲されたこともあった。 1799年のクイニョン包囲戦でピニョー・ド・ベーヌが死去すると、阮福景は深く悲しんだ。 阮福景は晩年に秘密裏に洗礼を受けたといわれる。 1801年、天然痘により亡くなった。しかし、宣教師の間では毒殺とする説もある。 阮福景は王太子だったため、次の継承者は子の阮福美堂といわれていたが、嘉隆帝は長子相続の原則を曲げて自らの第4子阮福膽(後の明命帝)を後継者とした。
※この「ベトナム帰国」の解説は、「阮福景」の解説の一部です。
「ベトナム帰国」を含む「阮福景」の記事については、「阮福景」の概要を参照ください。
- ベトナム帰国のページへのリンク