ベトナム問題との関わり
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/23 14:40 UTC 版)
「リチャード・ホルブルック」の記事における「ベトナム問題との関わり」の解説
大学卒業後まもなく国務省に入省し、入省後は1年間のベトナム語研修を受けた後、ベトナム問題に携わるようになる。これ以降、現地赴任も含め通算で6年間にわたってベトナム問題に取り組んだ。国務省入りしたのは、当時の大統領であるケネディ大統領に触発され、「政府で公職に就いて働くことこそ、我々にできる最良のことだ」と考えるようになったことと、ディーン・ラスクから「外交官は、どんな仕事よりも価値がある職業だ」と聞かされていたことがきっかけである。 当初は、国際開発庁文民代表部のスタッフとしてメコンデルタ地域へ派遣され、南ベトナム政府による経済開発政策と地方政治改革政策を支援するための地方への宣伝活動任務に従事した。その後、当時サイゴンにあったベトナム大使館に移り、マクスウェル・D・テイラー大使と、その後任のヘンリー・キャボット・ロッジ Jr.大使の補佐官を務めた。この大使館勤務の頃の同僚には、ジョン・ネグロポンテ(のちにジョージ・W・ブッシュ政権下で国連大使や国家情報長官、国務副長官を歴任)やアンソニー・レイク(のちにビル・クリントン政権下で国家安全保障問題担当大統領補佐官)、レス・アスピン(英語版)(のちにビル・クリントン政権下で国防長官)など、のちにアメリカの外交・軍事・安全保障政策を取り仕切ることになる人材が多数いた。 ベトナム戦争が長期化・泥沼化の様相を呈すると、当時のジョンソン大統領は打開策を探るべく、1966年、ホワイトハウスにフェニックス計画の責任者であったロバート・コウマーを座長とするベトナム問題の専門家たちを集めた特命チームを立ち上げた。このチームに、当時24歳だったホルブルックも「現地で重要な経験を積んだ、新進若手の外交官」としてチーム参加を打診されたため、本国へ帰任しチームに加わった。 ホワイトハウスで働いた後は国務省に戻り、 ニコラス・カッツェンバック国務次官の特別補佐官を務めた。この後、民主党のジョンソン政権から共和党のニクソン政権へと政権が交代したが、ホルブルックは次のエリオット・リチャードソン国務次官の下でも引き続き特別補佐官職に留まり、しばらくの間職務にあたった。特別補佐官在職中の1968年にベトナムとの和平を目指して開始されたパリでの秘密交渉においては、W・アヴェレル・ハリマン元ニューヨーク州知事とサイラス・ヴァンス国防副長官の2人を首席代表とする代表団の一員に加わっているほか、この他にもベトナム戦争の秘密報告書で、のちにニューヨーク・タイムズ紙がスクープしたことで知られるペンタゴン・ペーパーズの作成にも携わっている。 その後国務省を離れ、 プリンストン大学の公共政策大学院であるウッドロウ・ウィルソン・スクール(英語版)にフェローとして招聘され、1970年途中まで1年間研究に従事した。
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