ベトナム共和国陸軍 1955年~1975年
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/09 22:21 UTC 版)
「ベトナム共和国陸軍」の記事における「ベトナム共和国陸軍 1955年~1975年」の解説
「サイゴンの戦い (1955年)(英語版)」、「1960年ベトナム共和国の軍事クーデター未遂」、「1962年南ベトナム独立宮殿爆撃(英語版)」、「フエのウェーサーカ祭銃撃事件(英語版)」、「サーロイ寺襲撃事件(英語版)」、「1963年ベトナム共和国の軍事クーデター」、「ゴ・ディン・ジエムの逮捕と暗殺(英語版)」、および「1964年ベトナム共和国の軍事クーデター(英語版)」も参照 1955年10月26日、アメリカの支援を受けたゴ・ディン・ジエム大統領によるベトナム共和国が成立する。これと共に軍の再編が行われ、1955年12月30日にはベトナム共和国軍(ベトナム語:Quân Đội Việt Nam Cộng Hòa - QDVNCH, 英語:Republic of Vietnam Military Forces - RVNMF)となる。この際に陸軍航空隊も独立した軍種としてベトナム共和国空軍(ベトナム語:Không lực Việt Nam Cộng hòa - KLVNCH, 英語:Vietnamese Air Force - VNAF)に再編・改名され、陸海空の三軍体制が整った。当初、共和国陸軍の前に立ちはだかったのはジエム政権と対立する南ベトナム解放民族戦線(ベトコン)のゲリラ部隊であった。アメリカ合衆国のジョン・F・ケネディ政権は共和国陸軍の対ベトコン作戦を支援するべく、財政支援の投下と軍事顧問の派遣を行った。この対ベトコン作戦の最中、ジエムの弟でもあるゴ・ディン・ヌー大統領顧問が立案した戦略村計画(英語版)(Strategic Hamlet Program)として知られる計画は、集落から住民を追い出してそのまま要塞陣地化するというものだったが、この計画はあまりに非人道的であるとして欧米諸国のメディアから非難を受けた。また熱心なカトリックであったジエムは、カオダイ教やホアハオ教などの民兵団を解散させるだけではなく、共和国陸軍を用いて仏教寺院への襲撃を繰り返した。この点も海外のメディアによって非難されたが、ジエムは多くの仏教寺院がベトコンのゲリラを匿っているのだと説明した。1963年8月21日深夜に行われた特殊部隊によるサーロイ寺への襲撃では数百人もの死傷者が出たとされている。 1963年、共和国陸軍将校団によるクーデターの折、ジエム大統領が暗殺される。このクーデターの背後にはアメリカ大使ヘンリー・ロッジの関与があったとされる。混乱の中でズオン・バン・ミン将軍が大統領に就任し、軍事政権が成立した。クーデター後、対ベトコン作戦におけるアメリカの役割は徐々に大きくなり、対照的に共和国陸軍の重要性は低下していった。また同時に軍上層部の腐敗も深刻なまでに進んでいった。アメリカは共和国陸軍の体制を強く批判し続けたものの、軍事物資及び資金の援助は続けられた。 ベトナム戦争はしばしば「アメリカ対ベトナム」という構図で表現されるが、実際にはアメリカが行った大規模な作戦の何れにも共同するベトナム共和国軍部隊が参加していた。 アメリカ製のM113装甲車は本来、いわゆる「戦場のタクシー」(Battle Taxi)として開発されたものである。共和国陸軍でも当初は同様の運用を行っていたが、ベトコンや人民軍との戦いで得た戦訓の元で設計されたのがM113 ACAVと呼ばれる改良型である。共和国陸軍によるM113 ACAVの運用について特記すべきは、第3装甲戦隊(英語版)における運用であろう。同中隊はACAVを用いる新たな戦術、および対ベトコン作戦における類稀なる勇敢を湛え、アメリカ大統領より大統領殊勲部隊の称号を与えられている。 ベトナム戦争ではおよそ58,000人のアメリカ兵が戦死したが、共和国軍の戦死者は224,000人を越えるとされている。人民軍やベトコンの将兵と共和国軍の将兵が親類・家族であるケースも多かったという。
※この「ベトナム共和国陸軍 1955年~1975年」の解説は、「ベトナム共和国陸軍」の解説の一部です。
「ベトナム共和国陸軍 1955年~1975年」を含む「ベトナム共和国陸軍」の記事については、「ベトナム共和国陸軍」の概要を参照ください。
- ベトナム共和国陸軍 1955年~1975年のページへのリンク