フレンチインディアン‐せんそう〔‐センサウ〕【フレンチインディアン戦争】
フレンチ・インディアン戦争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/07/24 13:44 UTC 版)
フレンチ・インディアン戦争(フレンチ・インディアンせんそう、英: French and Indian War、仏: Guerre de la Conquête、1754年 - 1763年)は、七年戦争のうち、北アメリカを舞台に繰り広げられた一連の戦闘である。イギリス領アメリカ植民地とヌーベルフランスが主な戦場となり、いずれも、本国からの援助を得て戦闘が行われた。1756年、この戦争は北アメリカの地域紛争から世界的な戦争となった。カナダでは、一部の歴史家がこの戦争を単に七年戦争と呼ぶが、フランス系カナダ人はしばしば、この戦争のことをラ・ゲール・ド・ラ・コンケットLa Guerre de la Conquête(征服戦争)と表現する。
注釈
出典
- ^ Brumwell, pp. 24–25.
- ^ Brumwell, pp. 26–31, documents the starting sizes of the expeditions against Louisbourg, Carillon, Duquesne, and West Indies.
- ^ a b c Anderson (2000), p. 747.
- ^ Jennings, p. xv.
- ^ The Canadian Encyclopedia: Seven Years' War.
- ^ (フランス語) L'Encyclopédie canadienne: Guerre de Sept Ans.
- ^ La guerre de la Conquête (1756-1760)
- ^ Powell, John (2005). Encyclopedia of North American immigration. New York: Facts On File. p. 204. ISBN 0816046581
- ^ Cogliano, Francis D. (2008). Revolutionary America, 1763–1815: A Political History. London: Routledge. p. 32. ISBN 9780415964869
- ^ Jennings, pp. 9, 176
- ^ Anderson (2000), p. 23
- ^ Jennings, p. 8
- ^ French and Indian Wars, Facts, Information, Pictures | Encyclopedia.com articles about French and Indian Wars
- ^ Borneman, p.89
- ^ Borneman, p.162
- ^ Facts on File History Database Center - Cherokee War
- ^ Borneman, p. 164
- ^ The Military of New France
- ^ a b c Anderson (2000), p. 26.
- ^ a b Fowler, p. 14.
- ^ a b Park Spotlight: Lake Loramie Ohio State Parks Magazine, Spring 2006
- ^ Fowler, p. 15.
- ^ Alfred P. James, The Ohio Company: Its Inner History (1959) pp 26-40
- ^ Jennings, p. 15
- ^ Jennings, p. 18
- ^ Anderson (2000), p. 28
- ^ 木村、104頁。
- ^ 木村、94-98頁。
- ^ Anderson (2000), p. 27
- ^ Fowler, p. 31.
- ^ Colonial America to the New Century. Presidents of the United States, Maps, Constitutional Documents and More (Google eブックス)
- ^ O'Meara, p. 48
- ^ Anderson (2000), pp. 42–43
- ^ Anderson (2000), p. 43
- ^ Jennings, p. 63
- ^ Fowler, p. 35.
- ^ Ellis, His Excellency George Washington, p. 5.
- ^ Fowler, p. 36.
- ^ O'Meara, pp. 37–38.
- ^ O'Meara, p. 41
- ^ O'Meara, pp. 43–45
- ^ Jennings, p. 65
- ^ Anderson (2000), p. 50
- ^ Anderson (2000), pp. 51–59.
- ^ Anderson (2000), pp. 59–65.
- ^ Fowler, p. 52.
- ^ Lengel p. 52.
- ^ O'Meara, p. 113.
- ^ Fowler, pp. 74–75.
- ^ a b Fowler, p. 98.
- ^ O'Meara, pp. 110–111.
- ^ O'Meara, p. 163.
- ^ Borneman, pp. 48-55
- ^ Borneman, pp. 56
- ^ Borneman, pp.67-69
- ^ Borneman, p.84
- ^ Borneman, p.86
- ^ Borneman, pp.46-59
- ^ Borneman, pp.56-57
- ^ Patterson, Stephen E. (1994). “1744-1763: Colonial Wars and Aboriginal Peoples”. In Buckner, Phillip; Reid, John. The Atlantic Region to Confederation: A History. Toronto: University of Toronto Press. p. 152. ISBN 0802005535
- ^ 大矢・ロングフェロー、230-231頁。
- ^ Borneman, pp. 82
- ^ Borneman, pp. 67-68
- ^ Borneman, pp. 82-83
- ^ a b Nester, pp. 53–61
- ^ Borneman,p.84
- ^ Borneman, pp. 86-95
- ^ Fowler, p. 138.
- ^ Fowler, p. 139.
- ^ Borneman, pp.72-74
- ^ Borneman, pp. 96-99
- ^ Anderson, Fred (2000). Crucible of War: The Seven Years' War and the Fate of Empire in British North America, 1754–1766. New York: Alfred A. Knopf. pp. 267-285. ISBN 0375406425
- ^ Three Centuries of Pittsburgh History
- ^ William, Wood, The Great Fortress: A Chronicle of Louisbourg 1720–1760 (online from Project Gutenberg)
- ^ Battle of Carillon French & Indian War Battle of Carillon
- ^ a b French and Indian War - French & Indian War Seven Years' War
- ^ Clio's Lessons: The Seven Years' War - Britain's Annus Mirabilis
- ^ Borneman, pp. 228-230
- ^ 小林、334-338頁。
- ^ Parks Canada - Battle of the Restigouche National Historic Site of Canada - History
- ^ - Parks Canada - Battle of the Restigouche National Historic Site of Canada
- ^ La chute de la Nouvelle-France - Québec
- ^ 木村、180頁。
- ^ 木村、114頁。
- ^ Anderson (2000), p. 498
- ^ Cave, p. 21
- ^ Jennings, p. 439
- ^ Anderson (2000), pp. 617–632
- ^ Anderson (2000), pp. 505–506
- ^ Calloway, pp. 161–164
- ^ Anderson (2000), pp. 565–566
- ^ Anderson (2000), pp. 636–637
- ^ Anderson (2000), p. 568
- ^ Borneman, pp. 296-297
- ^ a b The French and Indian War As a Cause Of the American Revolution, History, Other - CollegeTermPapers.com
- ^ Anderson, Fred. "The Real First World War and the Making of America" American Heritage, November/December 2005.
- ^ 第百九章 文明の第二の波=産業革命
- ^ a b Cave, p. xii
- ^ Anderson (2000), p. 525
- ^ Calloway, pp. 133–138
- ^ Calloway, pp. 152–156
- ^ Cave, p. 52
- ^ a b French Revolution :: essays research papers
- ^ a b The French Revolution :: European Europe History
- ^ a b The French Revolution
- ^ Conquest - The Canadian Encyclopedia
- ^ 木村、117-118頁。
- ^ Cave, p. 82
- ^ http://14.studio-web.net/~yamahisa/yankee_doodle.html Yankee Doodle ヤンキー ドゥードル アルプス一万尺元歌 (MIDI付)
- ^ Yankee Doodle
- ^ Yankee Doodle - Background Information and History of the Song Yankee Doodle
- ^ The French & Indian War Googleブックス p.43
- ^ St. Louis, Mo.:Population, Weather, Demographics, Facts, History, Mayor, Landmarks - Infoplease.com
- ^ Research Smallpox: Eradication, Storage, and Potential Use as a Bacteriological Weapon
- ^ Amherst and Smallpox
- ^ 木村、毛皮、77-78頁。
- ^ 5 Best French and Indian war Movies | Screen Junkies
フレンチ・インディアン戦争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/03/07 03:14 UTC 版)
「ウィンチェスター (バージニア州)」の記事における「フレンチ・インディアン戦争」の解説
エドワード・ブラドック将軍が1755年にカンバーランド砦に向かう途中でこの地域を通り、デュケーヌ砦への遠征行軍を行った。ワシントンはフェアファックス卿のための測量士だったのでその地域を熟知しており、ブラドック将軍の副官として随行した。住民のダニエル・モーガンはブラドック軍がペンシルベニアに行軍するときに荷馬車の御者として加わった。 1756年、ワシントン大佐はジェイムズ・ウッドが認可した土地にラウドン砦を設計し建設を始めたが、そこは現在のウィンチェスター中心街ノース・ラウドン通りの0.955エーカー (3,800 m2) に及ぶものとなった。ラウドン砦は独立戦争が始まるまで、兵士が駐屯し大砲が置かれた。この時代、ウィンチェスターに監獄が建設され、時には、フレンチ・インディアン戦争に抗議し、英国教会教区に税金を払うことを拒否したバージニアの多くの場所のクエーカー教徒を収容した。ペンシルベニアではクエーカー教徒が政治支配していたが、バージニアは英国教会の植民地であり、反戦主義はそれほど受け入れられなかった。クエーカー教徒の強い反戦主義は、バージニアがこの戦争と次の戦争(独立戦争)を強く支持したことと組み合わされて、長期にわたるクエーカー教徒の抑圧に繋がり、ウィンチェスターはより多くのクエーカー教徒が中西部の地へ向かう入口となり、1800年代半ばにはクエーカー教徒は極少数派となった。 フレンチ・インディアン戦争の間の1758年、26歳のワシントン大佐は、バージニア植民地議会のフレデリック郡選出議員に選ばれた。ダニエル・モーガンは後にバージニア境界地をインディアンの襲撃から守るレンジャーとして働き、1759年にウィンチェスターに戻った。戦後、1763年から1774年に、モーガンはアシュビー大尉の中隊に仕え、ポンティアックの反乱やオハイオ渓谷のショーニー族に対してバージニアを防衛した。
※この「フレンチ・インディアン戦争」の解説は、「ウィンチェスター (バージニア州)」の解説の一部です。
「フレンチ・インディアン戦争」を含む「ウィンチェスター (バージニア州)」の記事については、「ウィンチェスター (バージニア州)」の概要を参照ください。
フレンチ・インディアン戦争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/01/31 02:49 UTC 版)
「ウィリアム・ジョンソン (初代準男爵)」の記事における「フレンチ・インディアン戦争」の解説
「フレンチ・インディアン戦争」も参照 1753年6月、ヘンドリック・テヤノギンとモホーク族の代表団がニューヨークへ向かった。この時彼らは総督クリントンに、コヴェナント・チェーン(英語版)、イギリスとイロコイ連邦の外交的関係は崩壊したと声明を出した。イギリス政府はクリントンに、この状況を打開するべく、会議を召集するように命じた.。この会議でモホーク族は、ジョンソンが代理人に復帰する場合に限ってのみ、同盟は元に戻すと強く主張した。 翌1754年、ジョンソンは代理人として復帰した、ちょうどフレンチ・インディアン戦争が拡大しつつあるころだった。1755年、エドワード・ブラドック少将が、イギリス軍の戦争遂行を指揮するため北アメリカに派遣され、ジョンソンを、イロコイ連邦に対しての自分の代理人とした。ジョンソンの軍事経験はさほどではなかったが、少将に任命され、クラウンポイント(英語版)の、フランスの砦であるサンフレデリック砦まで遠征軍を率いるように指示された。ジョンソンの部隊は植民地が召集した民兵隊で、イギリスの正規兵はいなかった。つまり、ジョンソンは、行軍中に6つの異なる植民地の兵を率いなければならなかったということである。 ジョンソンは当初、5000人の部隊を率いていたが、マサチューセッツ総督である将軍ウィリアム・シャーリーが、同じ時期に遠征軍をナイアガラ砦(英語版)まで行軍させており、ジョンソンの兵と物資の一部がシャーリーの軍に回された。ジョンソンとシャーリーが、インディアン兵を募集するために互いに妨害しあったため、緊張が高まった。予想外の指揮系統で、2人のいさかいは面倒なことになった。ブラドックの次席指揮官であるシャーリーは、ジョンソンの上官であったが、ことインディアンのことに関しては、理論上はジョンソンが責任者だった。やがてシャーリーは、自分の遠征が失敗したのは、ジョンソンが、十分なインディアンの支援を拒否したためであると非難しようとした。しかしジョンソンの伝記作者であるミルトン・ハミルトンはこう述べている。通常歴史家は、ジョンソンを、シャーリーとの議論でわけのわからない行動を取ったとするが、そうではなく、シャーリーのインディアンとの付き合い方がまずかったため、イギリスとイロコイ連邦の関係を悪化させたことにジョンソンが反論したのである。
※この「フレンチ・インディアン戦争」の解説は、「ウィリアム・ジョンソン (初代準男爵)」の解説の一部です。
「フレンチ・インディアン戦争」を含む「ウィリアム・ジョンソン (初代準男爵)」の記事については、「ウィリアム・ジョンソン (初代準男爵)」の概要を参照ください。
フレンチ・インディアン戦争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2016/06/06 19:16 UTC 版)
「ジェイムズ・クリントン」の記事における「フレンチ・インディアン戦争」の解説
クリントンの軍歴はフレンチ・インディアン戦争で始まっており、1757年に少尉で任官し、1759年には大尉に昇った。1758年、1個中隊を指揮して父の大佐や弟のジョージ(中尉)と共に、ジョン・ブラッドストリート将軍がフロンテナック砦(現在のオンタリオ州キングストン)を占領した戦いに参戦した。クリントン兄弟はフランスの艦船を捕獲する時に重要な役割を果たした。 クリントンは軍隊に留まり、1763年に戦争が終わるまでフロンティアの様々な基地に駐屯した。その後軍務を退き、メアリー・デウィットと結婚した。
※この「フレンチ・インディアン戦争」の解説は、「ジェイムズ・クリントン」の解説の一部です。
「フレンチ・インディアン戦争」を含む「ジェイムズ・クリントン」の記事については、「ジェイムズ・クリントン」の概要を参照ください。
フレンチ・インディアン戦争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2016/06/16 01:26 UTC 版)
「アートマス・ウォード」の記事における「フレンチ・インディアン戦争」の解説
1755年、民兵組織が再編され、ウォードはウースター郡出身者から構成される第3連隊の少佐となった。第3連隊はマサチューセッツ西部の辺境で守備兵として勤務した。それからの2年間は軍務と議員の職を交互にこなした。1757年にミドルセックス郡とウースター郡を併せた第3連隊の大佐となった。1758年、第3連隊はジェームズ・アバークロンビー将軍の指揮でタイコンデロガ砦に向かった。この攻略戦はイギリス軍の大敗となったが、ウォードは石礫の攻撃に遭って怪我をし、局外に置かれていたために助かった。
※この「フレンチ・インディアン戦争」の解説は、「アートマス・ウォード」の解説の一部です。
「フレンチ・インディアン戦争」を含む「アートマス・ウォード」の記事については、「アートマス・ウォード」の概要を参照ください。
フレンチ・インディアン戦争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2016/06/16 13:10 UTC 版)
「セス・ポメロイ」の記事における「フレンチ・インディアン戦争」の解説
フレンチ・インディアン戦争中の1755年、中佐となったポメロイは、エフライム・ウィリャムズ大佐指揮する連隊の第二指揮官となった。この連隊はクラウンポイント占領を支援するためにニューヨーク植民地北部に向かった。 この行軍中に連隊は、ディースコー男爵の指揮する800名のフランス軍とカナダ兵およびそれを支援する600名のイロコイ族戦士に待ち伏せされた(ジョージ湖の戦い)。指揮官のウィリャムズ大佐が殺され、ポメロイが替わって指揮を執った。イギリス軍は多くの損失を被ったが、ジョージ湖の南端にあったイギリス軍宿営地まで撤退できた。そこでは急遽、木材や荷馬車を使って防壁をこしらえ陣地とした。さらにウィリアム・ジョンソン将軍の援軍と大砲にも支えられた。インディアンやカナダ兵はそれ以上は攻めてこなかった。ディースコー男爵が負傷したフランス軍はカリヨン砦(後のタイコンデロガ砦)まで撤退した。 この時ディースコー男爵を捕虜にし、ジョンソンはその宿営地を本格的なウィリアム・ヘンリー砦に作り直した。
※この「フレンチ・インディアン戦争」の解説は、「セス・ポメロイ」の解説の一部です。
「フレンチ・インディアン戦争」を含む「セス・ポメロイ」の記事については、「セス・ポメロイ」の概要を参照ください。
フレンチ・インディアン戦争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/06 15:33 UTC 版)
「ロバート・ロジャーズ」の記事における「フレンチ・インディアン戦争」の解説
詳細は「フレンチ・インディアン戦争」および「ロジャーズ・レンジャーズ」を参照 1755年、戦争が植民地におよび、ヨーロッパでも拡大した。イギリスとフランスは互いに宣戦布告した。イギリス領アメリカはエドワード・ブラドックの敗北など一連の負け戦を喫していた。フランスの勝利に発奮したインディアンがアメリカのフロンティアからイギリス人住民を追い出すことを目指して植民地への攻撃を掛け続けた。
※この「フレンチ・インディアン戦争」の解説は、「ロバート・ロジャーズ」の解説の一部です。
「フレンチ・インディアン戦争」を含む「ロバート・ロジャーズ」の記事については、「ロバート・ロジャーズ」の概要を参照ください。
フレンチ・インディアン戦争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/12/28 15:19 UTC 版)
「モーゼス・ヘイズン」の記事における「フレンチ・インディアン戦争」の解説
フレンチ・インディアン戦争が始まったとき、ヘイズンは革鞣し屋で徒弟修業をしていた。1756年、家族の多くの者が入っていた地元の民兵隊に入隊した。初めにジョージ湖近くのウィリアム・ヘンリー砦で任務に就き、そこでロジャーズ・レンジャーズの指揮官ロバート・ロジャーズと初めて出逢い、その指揮下に入った。ロジャースはその後、レンジャーズの新しい中隊でヘイズンを士官に任命するよう推薦した。1758年、イギリス軍によるルイブール要塞包囲戦中にヘイズンの兄弟が物資をイギリス軍に供給するの助けた後、エドワード砦でレンジャーズのジョン・マカーディ中隊で少尉に任官された。マカーディ中隊では、ルイブール攻撃で戦闘が極めて激しかった最初の上陸時を含め、戦闘に参加した。 ルイブールの後、その中隊はまずセントジョン砦に駐屯し、その後セントアン砦に移ってアカディア人やインディアンに対して戦い、襲撃を行った。ある特に残酷な事件の中で、6人の男の頭皮を剥ぎ、他に4人と2人の女、3人の子供をヘイズンが火を付けた家屋で焼き殺した。地元の民兵隊指導者で焼かれた女性の父でもあったジョセフ・ベルフォンテーンは、レンジャーズへの協力を強制するためにこの事件を目撃させられたと訴えた(ベルフォンテーンは2人の孫と共に森の中に逃亡した)。ヘイズンを大尉に昇格させるまでこの事件を知らなかったジェフリー・アマースト将軍は、「私は常に女性や幼気な子供を殺すことを認めないので彼の長所を傷つけたあの事件について聞いたと言うのは残念なことだ。」と述べた。 1759年1月、マカーディ大尉が兵士の倒した木の下敷きになって死んだ。ヘイズンは中隊の指揮を任された。1759年のその後に中隊はケベック包囲戦に参加し、おもに郊外の偵察や襲撃に関わった。ケベック市が陥落したときは、それらの襲撃の一つに出ていた。ヘイズンの中隊が関わったもう一つの残虐行為として、ケベックに近い教区で牧師1人と30人の教区員が殺され頭皮を剥がれた。 ヘイズンは1760年のサントフォアの戦いにも参戦し、太腿に重傷を負った。1761年2月、イギリス軍第44連隊の中尉としての任官を購入した。この戦争の残り期間はモントリオールの守備隊任務となり、1763年に休職給で退官した。ジェイムズ・マレー将軍は1761年にヘイズンについて、「彼は大変な勇敢さを示し功績を残したので、彼が要求できるあらゆる軍隊的報償を得る資格がある」と肯定的に記した。
※この「フレンチ・インディアン戦争」の解説は、「モーゼス・ヘイズン」の解説の一部です。
「フレンチ・インディアン戦争」を含む「モーゼス・ヘイズン」の記事については、「モーゼス・ヘイズン」の概要を参照ください。
フレンチ・インディアン戦争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/14 03:44 UTC 版)
「フランス領カナダの防衛軍」の記事における「フレンチ・インディアン戦争」の解説
フレンチ・インディアン戦争が勃発すると、コンパニはフランス軍が北アメリカで勝利を得るうえで重要な存在となった。入植地での軍事経験や、フランス系カナダ人の民兵、及び先住民との戦時同盟によって磨かれたゲリラ戦の技術が戦争で発揮された。イギリスの入植地への奇襲に加え、この戦争の初期にオハイオの要塞を先頭に立って奪い返し、イギリスの軍に完勝するという成果も挙げた。1755年までに、本国から正規の歩兵連隊がヌーベルフランス防衛のために派遣され、コンパニは彼らの編成に組み込まれて、ルイブール要塞やケベック、モントリオールをイギリス軍から守るために共同で戦線での任務についた。しかし、フランスの敗戦と北アメリカでの入植地の消滅により、常設軍もまた姿を消した。その後の1760年の征服でフランスに帰る者がいる一方で、カナダに根を下ろす者もいた。
※この「フレンチ・インディアン戦争」の解説は、「フランス領カナダの防衛軍」の解説の一部です。
「フレンチ・インディアン戦争」を含む「フランス領カナダの防衛軍」の記事については、「フランス領カナダの防衛軍」の概要を参照ください。
フレンチ・インディアン戦争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/14 03:48 UTC 版)
「ジョゼフ・ブルッサール」の記事における「フレンチ・インディアン戦争」の解説
ボーセジュール砦の戦い後、ル・ルートルが投獄されたのに伴い、ブルッサールが、アカディア人追放の時期を通して、武装レジスタンスの指導者となった。1755年6月、シグネクト地峡の領有権をフランスと争っていたイギリスは、ボーセジュール砦を包囲した。この戦いでブルッサールもイギリス軍と交戦し、イギリス軍士官を捕囚した。6月16日、砦が攻略された当日、ブルッサールはイギリス軍の野営地を少人数で攻撃した。そしてブルッサールはモンクトンに会い、恩赦を前提にイギリス軍とインディアンの調停を名乗り出て、モンクトンは同意を示したが、総督ローレンスは承諾しなかった。 1755年のアカディア人追放の際には、ブルッサールと家族はおそらく森に隠れたと思われる。その後シャルル・デシャン・ド・ボワシェベールの軍に加入し、プティクーディアクの戦いに臨んだ。またヴォードルイユ総督の命を受けてで敵艦を拿捕もしたが、1758年のプティクーディアク川方面作戦では、脚の負傷で戦線離脱せざるを得なくなった。 ケベックが陥落した後の1761年もレジスタンス活動は続いていたが、飢饉のためブルッサールは困窮し、カンバーランド砦(ボーセジュール砦)の指揮官であるジョセフ・フライ大佐に降伏した。1762年の10月、ブルッサールは、家族と共にエドワード砦に投獄され、その後ハリファックスに移されて、1763年のパリ条約締結までハリファックスに監禁された。その年の終わりには、機密文書を所持していたため逮捕され、翌1764年になって釈放された。
※この「フレンチ・インディアン戦争」の解説は、「ジョゼフ・ブルッサール」の解説の一部です。
「フレンチ・インディアン戦争」を含む「ジョゼフ・ブルッサール」の記事については、「ジョゼフ・ブルッサール」の概要を参照ください。
フレンチ・インディアン戦争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/05/15 09:54 UTC 版)
「エドワード・ブラドック」の記事における「フレンチ・インディアン戦争」の解説
ブラドックは、アメリカのフレンチ・インディアン戦争における指揮官となり、イギリス軍正規兵2個連隊を率いて1755年2月19日、バージニアに上陸した。4月14日、ブラドックはアレクサンドリア委員会で植民地の知事達と会見し、フランスに対して攻勢を掛けるよう説得された。ブラドックは全軍を4つに分けて攻撃を仕掛ける作戦を立てた。マサチューセッツのウィリアム・シャーリー知事がナイアガラ砦(現在のニューヨーク州)を攻める、ウィリアム・ジョンソン将軍がクラウン・ポイント(同)を、ロバート・モンクトン大佐がファンディ湾のボーセジュール砦(現在のニューブランズウィック州)を、ブラドック自身はオハイオ川のフォークスにあるデュケイン砦(現在のペンシルベニア州ピッツバーグ近く)を攻めるというものだった。 ブラドックは管理上の混乱や物資の調達に煩わされて1ヶ月余を費やし、選りすぐった部隊を連れて出発した。この部隊には遠征地域に詳しい志願士官として当時23歳のジョージ・ワシントンも加わっていた。ブラドックは、まだフランス軍と同盟していないインディアンの種族から徴兵しようとしたが、ほとんど不成功に終り斥候として8名のミンゴ族のみを雇った。その地域のインディアン、特に有名なデラウェア族のシンガス酋長は中立のままであった。ヨーロッパの二大強国に挟まれて、インディアン達は敗者に付くわけにはいかなかった。ブラドックが成功するか否かがその選択を左右することになった。
※この「フレンチ・インディアン戦争」の解説は、「エドワード・ブラドック」の解説の一部です。
「フレンチ・インディアン戦争」を含む「エドワード・ブラドック」の記事については、「エドワード・ブラドック」の概要を参照ください。
フレンチ・インディアン戦争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/07/21 03:55 UTC 版)
「グリフィス・ラザフォード」の記事における「フレンチ・インディアン戦争」の解説
フレンチ・インディアン戦争の1760年に軍人としての長い経歴を始めた。この戦中に幾つかの戦闘や小競り合いに参戦した。中でもデュケーヌ砦の戦い(1758年)、ドブス砦の戦い(1760年)、アパラチア山脈南部でチェロキー族に対するジェイムズ・グラントの作戦(1761年)があった。その終戦までに大尉になっていた。1769年から1771年には世直しの戦争で反乱側に対抗する側に就き、最後はアラマンスの戦い(1771年5月16日)で地元民兵隊を指揮した。その後、ノースカロライナのセイラムに引退し、痛風の激しい発作からの快復に務めた。
※この「フレンチ・インディアン戦争」の解説は、「グリフィス・ラザフォード」の解説の一部です。
「フレンチ・インディアン戦争」を含む「グリフィス・ラザフォード」の記事については、「グリフィス・ラザフォード」の概要を参照ください。
フレンチ・インディアン戦争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/06 00:25 UTC 版)
「ジョージ・ワシントン」の記事における「フレンチ・インディアン戦争」の解説
1754年にワシントンはバージニア市民軍の大佐に任命され、バージニア西部の一連の砦を構築した。彼はバージニア州知事によってオハイオ渓谷からフランス軍を排除するために派遣された。フランス軍は要求を拒絶し、ワシントンはフランス軍偵察部隊を攻撃、指揮官のジュモンヴィルを含む10人を殺害した。フランス軍の報復を予想したワシントンは小さな砦(ネセシティ砦)を構築した。しかしながらそれは無意味だった。ワシントンの部隊はフランス軍に数で圧倒され、低地に作られた砦は激しい降雨により氾濫に見舞われた。結局彼は降伏せざるを得ず、フランス軍とバージニアへの安全な帰還を交渉した。降伏の条件にはジュモンビル・グレンの戦いでフランスの斥候と指揮官を暗殺したという声明が含まれていた。フランス軍から解放されバージニアに戻ったワシントンは降格されるよりも辞任の道を選んだ。しかしこの敗戦が結果的にフレンチ・インディアン戦争の開戦を招くこととなる。 1755年、ワシントンはフレンチ・インディアン戦争でオハイオ領土を取り戻すことを試みたイギリス軍のブラドック遠征に従軍した。西ペンシルベニアでのモノンガヒーラの戦いの間に、配下の3頭の馬が銃撃を受け、4発の弾丸が彼のコートを貫通した。この戦いで敗北を喫したものの、彼は退却の際に砲火の下の冷静さを示した。戦闘中のワシントンの役割はその後の議論の対象となってきたが、伝記作者のジョセフ・エリスは、ワシントンが戦場を馬で乗り回し、イギリス軍やバージニア民兵の残存兵を掻き集めて撤退させたと主張している。同年秋、バージニアの山岳地で難しい辺境の任務を与えられた。1758年、ジョン・フォーブスの遠征隊に参加し、この時はデュケイン砦のフランス軍を排除することに成功した。この年遅くワシントンは軍隊の現役から退き、その後の16年間はバージニアの農園主および政治家として過ごした。
※この「フレンチ・インディアン戦争」の解説は、「ジョージ・ワシントン」の解説の一部です。
「フレンチ・インディアン戦争」を含む「ジョージ・ワシントン」の記事については、「ジョージ・ワシントン」の概要を参照ください。
フレンチ・インディアン戦争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/01/09 08:29 UTC 版)
「北米植民地戦争」の記事における「フレンチ・インディアン戦争」の解説
詳細は「フレンチ・インディアン戦争」を参照 フレンチ・インディアン戦争は欧州の七年戦争(1756年 - 1763年)の2年前から北米で開始された英仏植民地戦争(1754年 - 1763年)で、当初はインディアンと同盟したフランス軍が優勢だったが、最終的に英軍がケベック市とモントリオールを占領してカナダを制圧。 1762年、秘密条約・フォンテーヌブロー条約の調印で、フランスがルイジアナ植民地を秘密裏にスペイン(ヌエバ・エスパーニャ)に割譲。 1763年、パリ条約でフランスがミシシッピ川の東側とカナダ全域をイギリスに割譲。フランスは北米の植民地を実質的に喪失したが、イギリスに対して植民地を維持しているように見せかけた。
※この「フレンチ・インディアン戦争」の解説は、「北米植民地戦争」の解説の一部です。
「フレンチ・インディアン戦争」を含む「北米植民地戦争」の記事については、「北米植民地戦争」の概要を参照ください。
フレンチ・インディアン戦争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/09/29 14:24 UTC 版)
「ジョン・スターク」の記事における「フレンチ・インディアン戦争」の解説
スタークはフレンチ・インディアン戦争のときに、ロバート・ロジャーズ少佐の下で少尉として入隊した。勇敢なロジャーズ・レンジャーズの一員として、貴重な戦闘体験をし、アメリカ植民地の北部辺境に関する知識を得た。 ジェフリー・アマースト将軍がケベックの征服を期待してロジャーズ・レンジャーズにジョージ湖からケベックの奥深くセントフランシスのアベナキ族の集落への遠征を命じた。レンジャーズは北に向かいインディアンの集落を攻撃した。スタークはレンジャーズの中隊全てを統括する副指令となっていたが、インディアンの里親がそこに住んでいることに対する敬意を払って攻撃隊に同道することを拒否した。スタークは前年に結婚した妻の待つニューハンプシャーに戻った。 戦争が終わると、スタークは大尉として退役し、デリーフィールド(現在のマンチェスター)に戻った。
※この「フレンチ・インディアン戦争」の解説は、「ジョン・スターク」の解説の一部です。
「フレンチ・インディアン戦争」を含む「ジョン・スターク」の記事については、「ジョン・スターク」の概要を参照ください。
フレンチ・インディアン戦争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/16 05:17 UTC 版)
「シャルル・デシャン・ド・ボワシェベール」の記事における「フレンチ・インディアン戦争」の解説
フレンチ・インディアン戦争(七年戦争の北アメリカ方面戦争)の間、ボワシェベールは、1754年にメナグエシュ砦の指揮官となり、イギリス軍のセントジョン川における拠点作りを阻止した。しかし、1755年6月16日の、ボーセジュール砦の戦いで、ロバート・モンクトン(英語版)の軍が勝利したことで、ボワシェベールの戦歴は転換点を迎えることになった。その後の戦いでフランス軍士官ボワシェベールは、ミクマク族とアカディア人を率いてイギリス軍にゲリラ戦を仕掛けた。ボーセジュール陥落直後、モンクトンは少人数の民兵が守っていたメナグエシュ砦に大規模な分遣隊を送り込み、もはや勝利の見込みはないことに気付いたボワシェベールは、敵軍の到着前に砦を焼き、地元民にまぎれながら敵との交戦を続けた。
※この「フレンチ・インディアン戦争」の解説は、「シャルル・デシャン・ド・ボワシェベール」の解説の一部です。
「フレンチ・インディアン戦争」を含む「シャルル・デシャン・ド・ボワシェベール」の記事については、「シャルル・デシャン・ド・ボワシェベール」の概要を参照ください。
フレンチ・インディアン戦争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/11 18:55 UTC 版)
「ジョン・アームストロング (大陸軍少将)」の記事における「フレンチ・インディアン戦争」の解説
フレンチ・インディアン戦争の時、デラウェア族インディアンとフランス軍の連合軍が、1756年6月にペンシルベニアのグランビル砦(今日のルイスタウン近く)を襲って破壊し、キタニング・パスを通って、アレゲニー川沿いキタニングの防御が施された集落に多くの捕虜を連れ帰った。知事のジョン・ペンは、カンバーランド郡に駐在する植民地軍に対処するよう命じた。この時大佐であったアームストロングは、キタニング遠征隊を率い、敵地領内深くまで大胆な侵略を行って1756年9月8日にキタニングを破壊した。この行動でアームストロングは「キタニングの英雄」という終生続く呼称を貰った。 1758年、アームストロング大佐は2,700名のペンシルベニア植民地軍を率いてジョン・フォーブス遠征隊に参加し、その接近の報だけでフランス軍はデュケイン砦を放棄して破壊した。アームストロングはこの遠征隊にいた民兵指揮官ジョージ・ワシントン大佐と親しくなった。
※この「フレンチ・インディアン戦争」の解説は、「ジョン・アームストロング (大陸軍少将)」の解説の一部です。
「フレンチ・インディアン戦争」を含む「ジョン・アームストロング (大陸軍少将)」の記事については、「ジョン・アームストロング (大陸軍少将)」の概要を参照ください。
フレンチ・インディアン戦争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/12 07:11 UTC 版)
「バージニア植民地」の記事における「フレンチ・インディアン戦争」の解説
さらなる植民地領土を奪い合って、1754年頃からオハイオ川流域では、イギリスとフランスの対立が顕著になった。フランスは同地域へのイギリスの進出を阻止する構えを見せ、バージニア植民地政府の命を受けたジョージ・ワシントンは1754年春から夏にかけて、バージニアの兵士を指揮してデュケーン砦を占領しようとしたが、優勢なフランス軍に敗れた。英仏両陣営はそれぞれイロコイ連邦を始めとするインディアン部族と同盟を組み、彼らに代理戦争をさせた。どちらが勝ってもインディアンにとってすれば、また彼らの領土が白人に強奪される結果となった。
※この「フレンチ・インディアン戦争」の解説は、「バージニア植民地」の解説の一部です。
「フレンチ・インディアン戦争」を含む「バージニア植民地」の記事については、「バージニア植民地」の概要を参照ください。
フレンチ・インディアン戦争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/07/05 06:44 UTC 版)
「ベネディクト・アーノルド」の記事における「フレンチ・インディアン戦争」の解説
1755年に、アーノルドは鼓隊の音に魅力を感じてフランスに対抗して従軍する為に植民地の民兵隊に志願しようとしたが、母親が認めようとしなかった。1757年、16歳のときに民兵隊に入隊し、フランス領カナダからの侵略(フレンチ・インディアン戦争)に対し、オルバニーとジョージ湖に進軍した。フランスの侵略はウィリアム・ヘンリー砦の戦いで頂点を迎えた。ここでイギリス軍は、ルイ・ジョセフ子爵指揮下のフランス軍に屈辱的な大敗を喫した。イギリス軍の降伏に続いて、フランスの同盟インディアンはイギリス軍と植民地軍が提示した降伏条件を知って激怒した。イギリス軍は頭皮、武器などの戦利品を約束したが、何も実行されなかった。イギリス軍は捕虜となって護送中に180人以上が虐殺された。フランス正規軍はそれを止めることができなかった。このできごとは、若く多感であったアーノルドにフランスに対する変わらぬ憎しみを植え付け、彼の後の人生に影響することになった。この戦闘の悲惨な結果を耳にしたアーノルドの中隊は引き返すことになった。アーノルドは13日間だけ従軍したことになった。アーノルドが1758年に民兵隊から脱走したという一般に受け入れられている話があるが、これは不確かな文書に残されたものに基づくものである。
※この「フレンチ・インディアン戦争」の解説は、「ベネディクト・アーノルド」の解説の一部です。
「フレンチ・インディアン戦争」を含む「ベネディクト・アーノルド」の記事については、「ベネディクト・アーノルド」の概要を参照ください。
フレンチ・インディアン戦争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/11 07:58 UTC 版)
「トマス・ゲイジ」の記事における「フレンチ・インディアン戦争」の解説
1754年、ゲイジはアメリカに転属となり、フレンチ・インディアン戦争では、アメリカのエドワード・ブラドック将軍の遠征に従軍した。この遠征隊には、将来の敵となるジョージ・ワシントンやホレイショ・ゲイツも加わっていた。1755年7月、第44連隊の指揮官ピーター・ハルケット大佐がモノンガヘラの戦いで撃たれて戦死した。ゲイジが連隊の指揮を執り、戦闘中に軽傷を負った。連隊はバラバラになり、ゲイジが取ったまずい野戦戦術で敗北につながったことをブラドックの副官であったロバート・オーム大尉が告発した。オームは翌年その任務から降りたが、オームの告発で、ゲイジは永久に第44連隊の指揮を執れなくなった。 1756年、ゲイジは失敗に終わったモホーク川の遠征に第二指揮官として加わった。翌年、ノバスコシアのハリファックスの総司令官ジョン・キャンベルのもとに行き、ゲイジは第80連隊の指揮を任され、大佐に昇進した。1758年ゲイジはタイコンデロガ砦の戦いでまた失敗し傷を負った。この損失にも拘わらず、ゲイジは准将に昇進した(これはゲイジの兄ウィリアム・ホール・ゲイジの政治的な操作によっている)。ゲイジは自隊へ地元の者を徴兵する間に、ニュージャージーのブランズウィック出身のマーガレット・ケンブルと出会った。ケンブルはニューヨーク市長ステファナス・ファン・コートラントの孫であり、ウエストミンスター・スクール時代のゲイジの友人でその時はニュージャージー議会に勤めていた者の娘であった。二人は1758年に結婚し、1761年に長男、ヘンリー・ゲージが生まれた。 新将軍となったゲイジはオールバニー部隊の指揮に就き、ジェフリー・アマースト少将に仕えた。1759年、ゲイジはアマーストの命令でフランス軍に対する攻撃を行い、ラ・プレゼンタシオン砦を攻略し、続いてモントリオールを占拠するように言われた。ゲイジはアマーストに反対し、ゲイジの部隊はナイアガラ砦とオスウェルゴ砦の援軍に向かい、アマースト自身がモントリオール攻撃に向かうよう提案した。ゲイジはアマーストの不快を買い、1760年にアマースト自身がモントリオール攻撃の準備ができるまで、オールバニー砦の守備隊に配属された(実際にはゲージはアマーストの後衛を務めた)。
※この「フレンチ・インディアン戦争」の解説は、「トマス・ゲイジ」の解説の一部です。
「フレンチ・インディアン戦争」を含む「トマス・ゲイジ」の記事については、「トマス・ゲイジ」の概要を参照ください。
フレンチ・インディアン戦争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/13 00:32 UTC 版)
「アメリカ合衆国の植民地時代」の記事における「フレンチ・インディアン戦争」の解説
詳細は「フレンチ・インディアン戦争」を参照 フレンチ・インディアン戦争(1754年-1763年)は七年戦争と呼ばれたヨーロッパ全体の紛争をアメリカに拡大したものだった。北アメリカにおけるそれ以前の植民地戦争はヨーロッパで始まり、それが植民地に広がったものだったが、フレンチ・インディアン戦争の場合は北アメリカで始まり、その後にヨーロッパに広まったことで特徴的だった。イギリスとフランスの間の競合は特に五大湖やオハイオ川渓谷で拡大し、それが戦争の主要原因の一つになった。 フレンチ・インディアン戦争はイギリスの首相大ピットが如何なる犠牲を払ってでもフランスに勝たなければならないと決心した時に、北アメリカのイギリス植民地人にとって重大なものとなった。初めて北アメリカが「世界戦争」と呼ばれるものの主要戦場になった。この戦争中、イギリス植民地(後にアメリカ合衆国の基盤になった13植民地を含む)のイギリス帝国における位置付けが実際に明白なものとなり、イギリスの軍隊と文民の指導者の存在がアメリカ人の生活の中で大きなものになった。この戦争はまた別の面でアメリカの統一という感覚を育てた。兵士達は通常自国から外には出なかったが、それが大陸を移動し、はっきりと異なるがやはり「アメリカ人」という背景を持つ者達と共に戦った。戦争の進展の中で、イギリス軍士官がアメリカ人を訓練した(最も著名なのがジョージ・ワシントン)。これはアメリカ独立戦争のときには有益だった。また、各植民地議会と役人は大陸全体にわたる軍事行動を行うために、初めて広範な共同行動をとる必要があった。 1763年のパリ条約で、フランスはその広大な北アメリカ帝国をイギリスに割譲した。戦前にイギリスが持っていたのは13植民地とノバスコシアの大半、およびハドソン湾地域の大半だった。戦後はミシシッピ川より東のフランス領全て、これにはケベック、五大湖およびオハイオ川流域の全てを含む領土を得た。またスペイン領だった東フロリダと西フロリダも獲得した。13植民地から外国の脅威を排除することで、植民地人が自らを防衛する必要性がほとんど無くなった。 イギリスと植民地人は共通の敵に対して共に戦い勝利した。母国に対する植民地人の忠誠心は戦前より強くなった。しかし、植民地内の不統一も形成され始めていた。イギリスのピット首相は植民地の軍隊を使うことで植民地での戦争を遂行し、資金はイギリス本国に課税することで賄うことにしていた。これは戦時の戦略としては成功だったが、戦争が終わると双方は互いよりも大きな重荷を負っていると考えた。イギリスの特権階級はヨーロッパの何処よりも重い税を掛けられており、植民地人がイギリスの国庫にほとんど金を納めていないことを怒りをもって指摘した。植民地人は彼らの息子達が戦って死んだのは自分達の利益よりもヨーロッパの利益に多く貢献したと反応した。この論争はその後にアメリカ独立をもたらすことになる一連の出来事に繋がっていった。
※この「フレンチ・インディアン戦争」の解説は、「アメリカ合衆国の植民地時代」の解説の一部です。
「フレンチ・インディアン戦争」を含む「アメリカ合衆国の植民地時代」の記事については、「アメリカ合衆国の植民地時代」の概要を参照ください。
フレンチ・インディアン戦争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/10/09 14:17 UTC 版)
「フォート・アン」の記事における「フレンチ・インディアン戦争」の解説
フレンチ・インディアン戦争において、イギリス軍は、1755年のファンディ湾方面作戦を展開し、この地域におけるアカディア人の追放 (Expulsion of the Acadians) を行なった。1759年のエイブラハム平原の戦いによるケベックの陥落によってフランス勢力の脅威はなくなり、アン砦は重要性を失うことになった。 砦はその後も、アメリカ独立戦争中には前線の拠点として第84歩兵連隊 (84th Regiment of Foot)が駐留し、米英戦争(1812年戦争)の際にはアメリカ合衆国の私掠船から町を守るために使用された。 この砦は、19世紀以降、フォート・アン(アン砦)と呼ばれるようになった。
※この「フレンチ・インディアン戦争」の解説は、「フォート・アン」の解説の一部です。
「フレンチ・インディアン戦争」を含む「フォート・アン」の記事については、「フォート・アン」の概要を参照ください。
フレンチ・インディアン戦争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/01 07:17 UTC 版)
「フランソワ=ガストン・ド・レビ」の記事における「フレンチ・インディアン戦争」の解説
1756年から1758年の間に、シャンプラン湖からのイギリス軍侵入の防御に努め、モンカルムとともに、ウィリアム・ヘンリー砦を攻撃して勝利し、1758年のカリヨンの戦いでは、モンカルムを補佐して、イギリスの襲撃をよせつけなかった。1759年、エイブラハム平原の戦いでの、モンカルムの死去の後、駐カナダフランス軍の指揮官となり、一旦はモントリオールに退却したものの、1760年のサントフォワの戦いでは、ジェームズ・マレー(James Murray)のイギリス軍に強い一撃を与えた。しかし、イギリス海軍の艦隊がケベックに援軍を連れて戻ってきたため、モントリオールに再び退却せざるを得なくなった。同年9月8日、モントリオールはイギリスの軍門に下った。 際立って公正な人柄であり、上官である将軍モンカルムと、ヌーベルフランス総督ヴォードルイユの仲たがいにも、口をはさむようなことはなく、そのため双方の信頼をかち得た。入隊間もないころに、陸軍や宮廷で、親族である元帥ミルポワからの引き立てを受け、そのためレビは、この元帥を里親のように思っていた。レビの時代は、引き立てがものを言う時代で、才能はあまり顧みられず、そのため彼は敵を作らないように注意しつつも、おべっか使いになることを避け、派閥主義からは距離を置いた。
※この「フレンチ・インディアン戦争」の解説は、「フランソワ=ガストン・ド・レビ」の解説の一部です。
「フレンチ・インディアン戦争」を含む「フランソワ=ガストン・ド・レビ」の記事については、「フランソワ=ガストン・ド・レビ」の概要を参照ください。
フレンチ・インディアン戦争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/16 01:58 UTC 版)
「ロジャーズ・レンジャーズ」の記事における「フレンチ・インディアン戦争」の解説
「フレンチ・インディアン戦争」も参照 アメリカ陸軍の歴史は、独立戦争よりも古い。1700年代の半ば、民兵隊大尉のベンジャミン・チャーチと、少佐のロバート・ロジャーズとがそれぞれ、フィリップ王戦争とフレンチ・インディアン戦争とでレンジャー部隊を編成した。ロジャーズは19条からなるロジャーズの原則を物し、今の時代にもその原則は受け継がれている。1755年、ニューハンプシャーの民兵隊が正式に活動し、ロバート・ロジャーズは、第一中隊の隊長として大尉に就任し、中尉のジョン・ストークと共に隊員となる猟兵(レンジャー)を集めた。この連隊の軍服と帽子はは緑で統一されていた。ロジャーズ・レンジャーズは、ニューヨーク植民地のジョージ湖、シャンプラン湖周辺で主に活動し、冬場に、かんじきをはいて結氷した川を渡り、フランスの入植地や砲台を襲撃した。この1757年のかんじきの戦いで、ロジャーズは一躍名を挙げた。イギリスの正規兵からは、特に敬意を受けてはいなかったが、この地域で活動する数少ない非インディアン組織であった。冬の酷寒と山の多い土地は条件としてはかなり厳しかった。 1757年1月21日、最初のかんじきの戦いで、ロジャーズの74人のレンジャーたちは、シャンプラン湖南部のカリヨン砦の近くで、7人のフランス兵を待ち伏せし、捕虜とした。また、約100人のフランス兵、カナダの民兵隊、そしてオハイオカントリーから来たオタワ族兵と衝突し、死傷者を出したのち撤退した。報告書によれば、フランス軍は戦術面で不利な立場だった。彼らはかんじきをつけておらず、膝まで雪に埋もれて動きが取れなかったのだった。フランシス・パークマンによれば、レンジャーズの戦死者は14人、捕囚6人で、無傷で戻った者48人、負傷して戻った者が6人である。89人の正規兵、90人のカナダの民兵、そしてインディアンから成るフランス軍は37人が死傷した。 1757年8月に、イギリス軍がフランスにウィリアム・ヘンリー砦を明け渡したのち、レンジャーズはニューヨークのエドワード砦の近くの、ロジャーズアイランドに駐留した。ここには多くの設備があり、天然痘の患者を収容する病院まであった。この地でレンジャーズは訓練を行った。 1758年の3月13日、2度目のかんじきの戦いで、レンジャーズはフランスとインディアンの連合軍に相手に陣容を立て直すことができず、敵に挟み撃ちにされそうになり、ロジャーズは、高台へ退却するように命じた。この途中で50人の兵を失ったと、後にロジャーズは日誌に書いている。その後も苦戦を強いられたロジャーズは、将校の任命状が入った 自分の軍服のコートを脱いで放った。それを後になって発見したフランス軍は、ロジャーズが死んだものと思い込んだ。しかしロジャーズは、その後撤退した。この時、山肌を滑って、結氷したジョージ湖の湖面にたどり着いたといわれている。この逸話にさしたる根拠はないが、その岩山は後に「ロジャーズ・スライド」(ロジャーズの滑り)またはロジャーズ・ロックとして知られるようになった。ロジャーズは生き残った52人のレンジャーズとぼつぼつとエドワード砦に戻った。そのうち8人は重傷だった。この戦闘で124人の兵士が戦死し、彼の従卒も退却中に引いた風邪がもとで死んだ。 ロジャーズの見積もりによると、この戦いでのフランス軍の戦死者は、最初の待ち伏せでフランス兵とインディアン兵が40人、その後の戦いで60人で、負傷者は千人を下らないとしている。しかし、エベクール大尉がモンカルム将軍に提出した報告書では、インディアン兵8人が戦死、17人のインディアン兵が負傷してうち2名がそのため死亡、そしてカナダ兵の負傷が3人となっている 。 ロジャーズ・レンジャーズはカリヨンの戦いで、ジョージ・ハウの命を受けて、偵察とシャンプラン湖測量の任務に就いた。しかしハウが戦死し、カリヨン砦での戦闘においては、トマス・ゲイジの第80軽歩兵連隊(英語版)と共に、イギリス陣のへりに当たる部分で、フランス兵を相手防御の背後へ押し戻した。 1758年8月8日、ニューヨークのクラウンポイントの近くで、レンジャーズと軽歩兵隊、そして民兵とが、フランス軍の大尉マリン率いる、カナダ人とインディアンの450人部隊に待ち伏せされた。この襲撃で、レンジャーズ少佐のイスラエル・パットナムが捕囚された。歴史家フランシス・パークマンによれば、イギリス兵49人が死んで、フランス軍が100人以上を殺したとなっている。しかし他の資料によれば、フランス軍の犠牲者は、4人のインディアン兵と6人のカナダ兵が戦死、そして4人のインディアン兵と、士官や士官候補生を含む6人のカナダ兵が負傷したとしている。 1759年9月13日、ロジャーズは、ジェフリー・アマーストから、ケベックのサンフランソワ・ド・リュクにある、アベナキ族の集落を破壊するよう極秘の命令を受けた、この集落は、フランスびいきな場所であった。レンジャーズには、アベナキ族に家族や友人を殺された兵士も多かったため、報復の意味もあり、ロジャーズは190人に及ぶ部隊を率いてクラウンポイントを発ち、サンフランソワへと向かった。1759年10月4日未明の攻撃と集落破壊の後、ロジャーズ・レンジャーズは、サンフランソワ川の東を通って撤退したが、その撤退中に、アベナキ族の集落から持ち出したトウモロコシも底をつき、食糧を得ようと苦心した挙句、ロジャーズはコネチカット川をカヌーでナンバーフォー砦まで下り、何隻ものカヌーに物資を積んで戻ってきた。 このサンフランソワの襲撃では、ロジャーズは200人を殺し、20人の女子供を捕虜にすべく残しておいたが、そのうち捕虜にしたのは子供5人で、他はその場を立ち去らせたと主張した。フランスの記録では殺されたのは30人のみで、うち20人が女子供であったとしている。フランシス・パークマンによれば、この襲撃でレンジャーズの兵士1人が戦死、6人が負傷したが、退却の間に、レンジャーズの分隊の一つから5人が捕囚され、また別の、約20人の分隊ではほぼ全員が殺され、または捕囚されたとしている。また襲撃に加わった142人のうち、69人が死んだともいわれる。
※この「フレンチ・インディアン戦争」の解説は、「ロジャーズ・レンジャーズ」の解説の一部です。
「フレンチ・インディアン戦争」を含む「ロジャーズ・レンジャーズ」の記事については、「ロジャーズ・レンジャーズ」の概要を参照ください。
フレンチインディアン戦争と同じ種類の言葉
固有名詞の分類
フランスの戦争 | グランソンの戦い イタリア戦争 フレンチ・インディアン戦争 下関戦争 英仏戦争 |
イギリスの戦争 | 米英戦争 マイソール戦争 フレンチ・インディアン戦争 下関戦争 インドネシア独立戦争 |
インディアン戦争 | グラッタンの虐殺 ダンモアの戦争 フレンチ・インディアン戦争 ジェロニモ テムズの戦い |
アメリカ合衆国の戦争 | 米英戦争 バーバリ戦争 フレンチ・インディアン戦争 下関戦争 ワジリスタン紛争 |
18世紀の戦争 | ロシア・スウェーデン戦争 インディアン戦争 フレンチ・インディアン戦争 ラーコーツィの独立戦争 擬似戦争 |
カナダの戦争 | 米英戦争のカナダ戦線 アルーストック戦争 フレンチ・インディアン戦争 カンバーランド砦の戦い ロングポイントの戦い |
北米植民地戦争 | アン女王戦争 第2次百年戦争 ジョージ王戦争 ウィリアム王戦争 フレンチ・インディアン戦争 |
- フレンチインディアン戦争のページへのリンク