ピカウィラニの攻撃
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/26 00:05 UTC 版)
「フレンチ・インディアン戦争」の記事における「ピカウィラニの攻撃」の解説
1752年3月17日に、ヌーベルフランス総督のジョンキエール侯爵ジャック=ピエール・ド・ラ・ジョンキエール(英語版)が亡くなり、臨時の総督にシャルル・ル・モイヌ・ド・ロンゲイユが就任した。その年の7月には、デュケーヌ侯爵ミシェル=アンジュ・デュケーヌ・ド・メネヴィユ(英語版)がヌーベルフランスに到着して、正式に総督に就任した。イギリス軍はなおもオハイオで軍事活動を続けており、そのためロンゲイユは、トゥループ・ド・ラ・マリンの士官であるシャルル・ミシェル・ド・ランラード(英語版)を指揮官として、遠征軍をオハイオに派遣した。ランラードが率いた兵は300人で、オタワ族とフランス系カナダ人から成り立っていた。この遠征の目的は、セロロンによるイギリスとの交易中止を無視した、ピカウィラニのマイアミ族への懲罰だった。6月21日、フランス軍はピカウィラニの交易所を攻撃し、3人の交易者を捕虜として、14人のマイアミ族を殺した。その中にはオールド・ブリトンもいた。彼は、伝えられるところによると、遠征に参加したオタワ族の儀式で、その肉を食べられた。
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