ピカソとの共作・ブルトンとの決別
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/04 07:21 UTC 版)
「ポール・エリュアール」の記事における「ピカソとの共作・ブルトンとの決別」の解説
1934年初めにピカソ展の一環としてスペインで一連の講演を行い、6月にはロンドンで開催された国際シュルレアリスム展で講演。スペイン内戦が勃発すると共和派(人民戦線政府)を支持して再び共産党に近づき、このため、同年9月にブルトンが発表したモスクワ裁判に抗議する声明には署名しなかった。同年12月には共産党の機関紙『リュマニテ』にエリュアールの詩が掲載されている。1938年3月にゲルニカ爆撃に抗議する「ゲルニカの勝利」を含む詩集『自然な流れ』を発表した。「ゲルニカの勝利」はピカソの「ゲルニカ」制作に合わせて書かれた詩であり、同年4月に発表した詩「連帯」にはピカソのほか多くの画家が挿絵を入れ、スペイン共和派支援のための小冊子として販売された。これ以後、『民衆の薔薇』から「ひとりの地平から万人の地平へ」とエリュアールの詩に対するピカソの影響はますます強くなっていく。同年12月にはルイ・パロ(フランス語版)との共訳でフェデリコ・ガルシーア・ロルカの詩「サルバドール・ダリ頌」を発表した。 一方、ブルトンとは1938年1月から2月にかけてパリのボザール画廊で国際シュルレアリスム展を共催したが、ブルトンがレフ・トロツキーと作成した独立革命芸術国際連盟結成に向けたマニフェストには署名しなかった。これを機に二人は決別した。
※この「ピカソとの共作・ブルトンとの決別」の解説は、「ポール・エリュアール」の解説の一部です。
「ピカソとの共作・ブルトンとの決別」を含む「ポール・エリュアール」の記事については、「ポール・エリュアール」の概要を参照ください。
- ピカソとの共作・ブルトンとの決別のページへのリンク