ピカソの『ゲルニカ』と他の芸術家の反応
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/17 14:26 UTC 版)
「ゲルニカ爆撃」の記事における「ピカソの『ゲルニカ』と他の芸術家の反応」の解説
「ゲルニカ (絵画)」も参照 パリ在住の画家パブロ・ピカソは共和国政府を支持しており、1937年1月にはフランコを風刺する内容の詩『フランコの夢と嘘』を著し、後には詩に添える銅版画を製作していた。ピカソは1937年のパリ万国博覧会のために共和国政府から壁画製作の依頼を受けており、はっきりとした意思表示をせずにいたが、4月26日のゲルニカ爆撃が報じられると即座に主題を決定した。5月1日に習作を描いて製作を開始すると、数日後には「スペイン軍部への嫌悪の意味を込めた『ゲルニカ』を製作中である」とする声明を発表した。5月11日には349cm×777cmのカンバスに向かいはじめ、6月4日頃には『ゲルニカ』を完成させた。『ゲルニカ』は5月25日から開催されていたパリ万博のスペイン館に展示され、ゲルニカ爆撃の悲惨さを世界に知らしめることに一役買った。『ゲルニカ』製作と並行して何枚ものデッサンを描いており、これらのいくつかは『泣く女』シリーズに反映されている。 反ファシストのフランス人詩人ポール・エリュアールは、『ゲルニカの勝利』と題した詩を製作し、友人であるピカソの絵画とともにパリ万博のスペイン館に展示された。レジスタンス運動にも参加していたフランス人彫刻家のルネ・イシェ(英語版)は、ラジオでゲルニカ爆撃を聞いたその日のうちに彫刻作品の製作を始めた。6歳の娘をモデルに『ゲルニカ』を完成させたが、髑髏のような顔、骨の浮き出た手足などの表現の激しさゆえに公での展示を拒否し、1997年の生誕100周年回顧展でようやく公開されたが、その後作品は家族の下に戻った。反ファシストのドイツ人版画家ハインツ・キウィッツ(英語版)は、パリにいた1937年に版画『ゲルニカ』の製作を行った。その後キウィッツは国際旅団の一員としてスペイン内戦に従軍し、1938年後半のエブロ川の戦い(英語版)に参加したことは記録に残っているが、その後のすべての痕跡が消えており、スペインで戦死したと推定されている。戦争に関する映画を何本も撮っているフランス人映画監督のアラン・レネは、20代後半だった1950年に短編映画『ゲルニカ』を製作した。
※この「ピカソの『ゲルニカ』と他の芸術家の反応」の解説は、「ゲルニカ爆撃」の解説の一部です。
「ピカソの『ゲルニカ』と他の芸術家の反応」を含む「ゲルニカ爆撃」の記事については、「ゲルニカ爆撃」の概要を参照ください。
- ピカソの『ゲルニカ』と他の芸術家の反応のページへのリンク