【第1次インドシナ戦争】(だいいちじいんどしなせんそう)
1946年から1954年にかけてベトナム民主共和国の独立をめぐり、宗主国であったフランスとの間で勃発した独立戦争。
単に「インドシナ戦争」と呼んだ場合、これを指すことが多い。
時代背景
インドシナ半島の3ヶ国、つまりベトナム・カンボジア・ラオスは19世紀以来フランス領インドシナとして、フランスの植民地となっていた。
また、第二次世界大戦中の1940年には日本軍がインドシナ半島に進駐していた。
敗戦が目に見えていた1945年3月、日本軍は「明号作戦」によりフランス勢力を倒し、かわってベトナムのバオ・ダイ(保大)帝、カンボジアのノロドム・シハヌーク王、ラオスのシー・サワン・ウォン王をそれぞれ擁立させて独立させた。
1945年8月、日本が降伏するとベトナムでは反日抵抗組織の「ベトナム独立同盟会(ベトミン)」がインドシナ共産党主導の下、各地でバオ・ダイ政権からの政権奪還闘争を行い、ついに1945年9月2日に「ベトナム民主共和国」を樹立した。
一方、ラオスでは反フランス組織のラオ・イッサラ、カンボジアではソン・ゴク・タン首相らが中心となってインドシナ諸国の独立が3月に再確認された。
しかし、1945年9月にヴィシー政権から復帰したフランスは3国独立を認めなかった。
そこでフランス空挺部隊の援助を受けた旧インドシナ軍は、ベトナム南部の都市サイゴンでクーデターを起こし、ベトミン系の行政委員会を駆逐し、サイゴン市内の行政権を奪取した。
駆逐された行政委員会は「抵抗委員会」を組織し、抵抗運動を開始した。
フランスからの増援部隊が到着するとともに、1946年1月までにベトナム南部のメコンデルタ地方の主要都市はことごとくフランス軍に奪還され、フランスは1946年3月に南部ベトナムを切り離し、「コーチシナ共和国」を成立させた。
一方、北ベトナムでは1946年3月にベトナム・フランス暫定協定等により、一応はベトナム民主共和国の独立が認められ、フランス軍は同月にハノイに無血入城をした。
しかし、北ベトナムとフランスの2度にわたる会議で全ベトナムの統一はフランスによって拒否された。
そして、1946年11月にハイフォン港がフランス軍によって砲撃され、12月にハノイでベトナム、フランス両軍が交戦した。
1946年12月20日に北ベトナム臨時政府主席のホー・チ・ミンは対フランスの全面抗戦を宣言し、「第1次インドシナ戦争」が開戦した。
戦況
全面戦争が始まると、フランス軍はハノイをはじめとする北ベトナムの要衝を占領し、一方、ベトミン軍は北部山岳部に根拠地をおいてゲリラ戦を全国で展開した。
1947年10月、フランス軍は山地のベトミン軍に大攻勢をかけたものの各地に迎撃され、敗北。
この間、ベトミン軍は中越国境において人民解放軍と握手し、フランスはアメリカ支持の下に、南部にベトナム国(バオ・ダイ政権)を成立させて、仏越連合軍としてベトミン軍との戦いを続行した。
しかし、1950年代になると北部では北ベトナム軍がフランス軍の拠点に正面攻撃を加えるまでに優勢になり、1950年11月にフランス軍が中国国境に近い都市ラオカイから撤退したのをはじめ、フランス軍は次々と拠点を奪われていき、1951年にベトミン軍は紅河デルタ地方に進出し、ハノイのフランス軍を脅かした。
デルタ地方防衛の為にフランス軍はアメリカからの軍事援助に頼り始めた。
戦争の終結
1954年5月にベトミン軍はラオス連絡線上のフランス軍の「ディエンビエンフー要塞」を陥落させた。
よってフランス軍の敗北は確実になった。
こうして1946年7月21日にスイスのジュネーブにおいて「ジュネーブ会議」が開かれ、
などを骨子とする平和条約を締結し、第1次インドシナ戦争は終結した。
その後
上記でも書かれているとおり、1956年に統一選挙を行うことが定められたが、アメリカは協定には参加せず、引き続きベトナム国を存続させた。
これは南北ベトナムの長い分断の始まりだった。
しかしフランスはアフリカ植民地での独立闘争が激化すると、アメリカにインドシナの肩代わりを求め、1955年にアメリカの影響力を強く受けたベトナム共和国(南ベトナム)が成立し、1956年6月にはフランスが完全撤収。
こうして80年に及ぶフランスのベトナム支配が終結した。
南部のベトミンは南ベトナムのゴ・ディン・ジエム政権の弾圧を受け、やがて「南ベトナム解放民族戦線(ベトコン)」を組織した。
第一次インドシナ戦争
(第1次インドシナ戦争 から転送)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/07 15:16 UTC 版)
第一次インドシナ戦争(だいいちじいんどしなせんそう、ベトナム語: Chiến tranh Đông Dương、フランス語: Guerre d'Indochine)は、1945年から1954年にかけて当時フランスの植民地であったフランス領インドシナのベトナム、ラオス、カンボジアの脱植民地化をめぐってベトナム民主共和国(ベトナム)とフランス共和国(フランス)との間で勃発した戦争である。単に「インドシナ戦争」と言った場合は、通常この戦いを指す事が多い[1]。
注釈
- ^ ルクレール自身は9月2日の東京湾上における降伏文書調印式に参加したのち仏領インドシナに着任する。
- ^ 1961年国務省白書によれば当時の解放戦線の武器の大部分が米・仏製あるいはジャングル内の原始的工場で作られたものだった
- ^ 1954年3月11日にワシントンD.C.で行なわれた米仏統合参謀総長会談でアーサー・W・ラドフォード米海軍大将がポール・エリー仏陸軍大将に「あなたがたは1952年冬の時点で敗北していた。」と語った。
- ^ ディエンビエンフー要塞の建設は、フランスへの援助を通じてベトナムへの介入を強めていたアメリカ、特にニクソン副大統領の強力なイニシアチブの下で進められた。要塞が完成する直前にはニクソン副大統領自らが現地を訪問し、ジープで走り回りながら構築状況を確認している姿が記録フィルムに残されている。
- ^ ディエンビエンフーの戦いで事実上の当事者であったニクソン副大統領は、ディエンビエンフー要塞が包囲されフランス軍が危機に陥った際に、周辺山岳地帯に集結したベトミン軍に対する原爆の使用をドワイト・D・アイゼンハワー大統領に進言したが却下された事を、自著『ノー・モア・ヴェトナム』(講談社 1986年 ISBN 4062024462)に記している。
- ^ ディエンビエンフーの戦いでは、1万人にのぼるフランス連合軍兵士が捕虜となったが、ベトミン側は当初これらの捕虜の存在を秘匿して、フランスとの交渉での取引材料とし、ジュネーヴ協定の交渉過程でフランス政府に身代金の支払と引き換えでの送還が実現した。この捕虜問題は、フランス政府に撤退後の南部メコンデルタ地域のフランス人入植者の安全への危惧を呼び起こし、フランスはかつて反仏的だったカオダイ教やホアハオ教、サイゴンの幇であるビン・スエン派などを資金援助してフランスの私兵団化させた。
出典
- ^ a b c d e f g h “インドシナ戦争”. コトバンク. 2023年8月22日閲覧。
- ^ “NHỮNG CON SỐ BIẾT NÓI...!”. Trung Phương (2020年7月16日). 2023年8月22日閲覧。
- ^ ガブリエル・コルコ「ベトナム戦争全史」p33 社会思想社
- ^ ロバート・S・マクナマラ「果てしなき論争」p143 共同通信社
- ^ a b c d e ベトナム独立戦争参加日本人の事跡に基づく日越のありかたに関する研究 井川一久 東京財団研究報告書 2005年10月
- ^ ロバート・S・マクナマラ「果てしなき論争」p144 共同通信社
- ^ バーナード・フォール「二つのベトナム」p130 毎日新聞社
- ^ Pentagon Papers,Origins of Insurgency in South Vietnam 54-60,pp270-282
- ^ Bernard B. Fall,The Two-Vietnams: a Political and Military Analysis,p129,Frederick Praeger, New York
- ^ タウンゼント・フープス「アメリカの挫折」p94 草思社
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